2019年02月13日
タルタル
ちょっと西海岸風でビーツ入れた馬のタルタルです。
ビーツが大量に来てましたので、タルタルに入れてみたらあらま、美味しいじゃないのよ、ってな事です。
生肉の鉄分とビーツの土っぽい香りは相性が良く、食感は肉のように感じます。
昔、生牡蠣と生肉のタルタルやってましたが、こっちの方がいいかもしれません。
2019年02月13日
ちょっと西海岸風でビーツ入れた馬のタルタルです。
ビーツが大量に来てましたので、タルタルに入れてみたらあらま、美味しいじゃないのよ、ってな事です。
生肉の鉄分とビーツの土っぽい香りは相性が良く、食感は肉のように感じます。
昔、生牡蠣と生肉のタルタルやってましたが、こっちの方がいいかもしれません。
先日の私のヒッチハイクでトラックの運ちゃんにドライブインでカエル料理をご馳走してもらった話をしました。
で、カエルが食いたくなったわけです。
フランスのカエルは、もはやグルヌイユ様と呼ばなくてはならないほどに別の生き物化、要するに高級食材化しており、ドライブインで山盛りのカエルをドイツ系の訛りが強いフランス人とムシャムシャしたのははるか遠い思い出です。
で、探しましたよ。
ありましたよ、中国料理に使う台湾産のカエルの足。
ふつうに庶民的な食材として。
これで、ウチの店でも使えますよ。
という事で、明日から王道のカエルのムニエル、パセリバターのブルゴーニュ風でいきたいと思います。
赤大根、ラディッシュ、青大根、人参、赤ガブ、ターニップなどなど
農家さんからの根菜攻撃をモロに受けてまして、さてどうしたものかとエスカベッシュをやるのとにしました。
詐欺師の山ちゃんからちょうど豆アジの押し売りも相まって、あんまりやりませんが根菜との相性も良いので仕込みました。
今日作って今日出せません。
明日、桃子さん来るので私の極太大根エキスでも入れておこうかな。
シャルキュトリー熱が再燃しそうです。
シャルキュトリー 教本を作った時点で、私の中でやりきった感がありましたが、その後色々と食べたり読んだりする中で新しいシャルキュトリー を作りたくなって来ました。
アメリカンなバーベキュー料理的なアプローチによる豚肉製品や、内臓をベースとしたシャルキュトリー 、アンドゥイエットですね。
大腸、小腸、直腸などなど。
焼肉屋のホルモンは食べてもホルモンソーセージはまだまだマイナーです。
ホルモンとは、元々は
放るもの、
ほうるもの、
ほるもん、
ホルモンとなった、人間が食べることのなかった食品廃棄物だったのですね。
この辺りの事は私なりに徹底的に調べました。
日本独特の内臓に関する暗い過去もヤバイ歴史も踏まえ、それらを加工して美味しく食べるという素晴らしい文化をフランス料理的アプローチで表現したいと思っています。
料理という意味では開拓されてますが、まだ日本には馴染んでいません。
私がパテドカンパーニュをワーワー言い始めた10年前と今ではパテに対する世間の意識も変わったように思います。
売ってる総菜屋も増えましたしね。
いつまでもおんなじことやってても面白くないので、新しいジャンルを開拓してみたいと今更ながらに思う今日この頃。
万人ウケ狙っても仕方ないのでパテドカンパーニュ同様、好きな人に刺されば良いかと思います。
そのために新兵器をアマゾンで購入。
アトリエには必需品ですが、レストランにもソーセージフィラーを導入し、さまざまな内臓ソーセージ研究してみようかと。
内臓ソーセージだけで店が出来るくらいまで高めて行きたいと思います。
もう少しアンドゥイエットを極めたいと思います。
今回は直腸でしたが、次は大腸に豚の胃袋やら小腸やらを詰め込んでぶっといソーセージにしようかと思っています。
今回はソフトな仕上がりでしたね。
これはこれでクリーンな旨味があって良かったです。
芝浦の屠畜場は内臓類に対してはかなり慎重になっており、綺麗になるまで洗ってから出荷する事が決められているようです。
芝浦ではない屠畜場にお願いしてサッとだけ洗った、少し残渣物(要するにウンコの手前)が残ってるくらいの腸をもらえるように交渉します。
そうか、イノシシの内臓を丸ごと捨てずに貰ってくればいいのか。
それはそれで強烈だろうな。
アンドゥイエット・ア・ラ・フィセル
断面図ですが、麻雀のイーピンみたいです。
イーピンは別名チンコの輪切りと言われており、チンコの輪切りというとRXボスに昔押し売りした馬の●ンコ料理に似てます。
馬のチ●コの断面も正にこんな感じで、長い時間コンフィにしましたが、柔らかくなることはなく、なんとも言えない弾力に自身の海綿体の痛みを感じたものです。
これはじっくり4時間煮込んでからパリッと焼いてます。
あと2本しかないので今日売り切れると思いますが、今週また更にやり方を変えて仕込んでみます。
ただ、今週はバレンタインデーウィークでアツアツのアベックが多いので、こんなの出したらボスのように喜んでもらえるどころかドン引きされるのがオチです。
ーー
音楽は 、静寂の美に対し 、それへの対決から生まれるのであって 、音楽の創造とは 、静寂の美に対して 、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある
ーーマチネの終わりに
平野さんは私と同じ蒲郡の生まれなのだそうです。
だからって話ではないのですが、ふと装丁につられて手にとって読み始めると止まらず、すぐにキンドルで購入。
こんなにもページをめくらせるトルクを持った小説は久しぶりです。
ゴリゴリの恋愛小説ですのでネタバレするのもアレなので、細かいことは敢えて書きませんが、これから小説読もうと思ってる方は飛ばしてください。
ネタバレしないように、恋愛小説の形をとった一連の記述から読み取れる著書の問いについての考察を書きます。
男性作家特有の難しい文体や表現が多用されており、小説はとっつきにくいかもしれません。
石田ゆり子様と福山さん主演で映画化されるらしいので、恋愛ストーリーでキュンキュンしたい方はそっちの方が良いと思います。
天才ギタリストとジャーナリストの恋は抽象と写実の対比であり、音楽と静寂、生と死、男と女、過去と未来、自殺と出産、自由意志と運命論…
ところどころに散りばめられたあらゆる対比によって現代人が抱える課題や悩み、知らないうちに犯してしまう現代ならではの罪をあぶりだしていきます。
ーー
人は 、変えられるのは未来だけだと思い込んでる 。だけど 、実際は 、未来は常に過去を変えてるんです 。変えられるとも言えるし 、変わってしまうとも言える 。過去は 、それくらい繊細で 、感じやすいものじゃないですか
ーーマチネの終わりに
冒頭の2人の出会いのシーンに投げかけられるこの言葉がテーマとなっています。
主人公は2人とも40歳前後の大人です。
そう、僕ちゃんと同じくらいのオトナ。
喜びや悲しみ、裏切りや嫉妬、成功も挫折も一通りの様々な相対的な価値を積み重ねたという事です。
大枠から言い換えれば、好調も不調も乗り越えてもまだ今と未来を期待して孤独を恐れながら生きていると言えます。
ーー
孤独というのは 、つまりは 、この世界への影響力の欠如の意識だった 。自分の存在が 、他者に対して 、まったく影響を持ち得ないということ 。持ち得なかったと知ること 。 ─ ─同時代に対する水平的な影響力だけでなく 、次の時代への時間的な 、垂直的な影響力 。それが 、他者の存在のどこを探ってみても 、見出せないということ
ーーマチネの終わりに
洋子が経験したバグダッドでの強烈な死の恐怖と、蒔野が経験した日本の大震災の恐怖。
紛争による殺戮と天災による死、外的要因による事故死や病死と内的な自殺。
過去と現在、現在と未来は一見すると地続きのように考えがちですが、未来と過去を分断する現在という生の瞬間に人間が死を意識する事はほとんどありません。
平和にコーヒー飲みながらこの本を読んでいる瞬間も紛争地域では、魚を包丁でぶつ切りにしたような剥き出しの生と死がドタっと目の前に置かれ、それと同じ生と死が隣にあるような瞬間に立ち会えば、私たち平和の住人は生きていることが奇跡であるということを忘れてしまったかのように恐れ戦いてしまいます。
物事は二元論でなく、人それぞれに矛盾を抱え、後悔を携えて生き、それに反省するどころか同じことを繰り返してしまいます。
そうして酸いも甘いも噛み分けたアラフォー人間は思いもよらない瞬間に、自分には無い魅力や強烈な個性を持った異性と恋に落ちてあたふたとするのです。
現代的なツールであるスマホのメールやスカイプの通話などによって世界中とリアルタイムで繋がることができた反面、不可能だった物理的距離間もなかったかのように繋げてしまうことによって、それまでは存在しなかった非人間的な機械による行き違いや機械を介することによる心理的ストレスなどの現代病が蔓延しています。
ーー
恋の効能は 、人を謙虚にさせることだった 。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは 、愛したいという情熱の枯渇より 、愛されるために自分に何が欠けているのかという 、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである
美しくないから 、快活でないから 、自分は愛されないのだという孤独を 、仕事や趣味といった取柄は 、そんなことはないと簡単に慰めてしまう 。そうして人は 、ただ 、あの人に愛されるために美しくありたい 、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう 。しかし 、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら 、恋とは一体 、何だろうか ?
ーーマチネの終わりに
恋をするということの本質は変わらないはずなのに、現代的なプロセスのちょっとした行き違いによって2人の運命は全く意図しない破滅的な方向に進み始めます。
嘘と真実、善と悪の隙間をふわふわと行き来しながらも時間が過ぎ、葛藤しながらも望まない環境は出来上がっていきます。
ーー
運命とは 、幸福であろうと 、不幸であろうと 、 「なぜか ? 」と問われるべき何かである 。そして 、答えのわからぬ当人は 、いずれにせよ 、自分がそれに値するからなのだろうかと考えぬわけにはいかなかった
「自由意志というのは 、未来に対してはなくてはならない希望だ 。自分には 、何かが出来るはずだと 、人間は信じる必要がある 。そうだね ?しかし洋子 、だからこそ 、過去に対しては悔恨となる 。何か出来たはずではなかったか 、と 。運命論の方が 、慰めになることもある 。
ーーマチネの終わりに
若い人は誰しもが自分の物語の主人公を演じたいと思うけれど、それがどうやら私は主役ではなく脇役になるべきではないか、その方が私らしいのではないか?と悶々とし始める年代でもあるのが40代です。
名脇役として主役である何か、例えば子供であったり、仕事のパートナーだったり、尊敬する存在や育てるべき人間のために我が身を捧げる人生を選び取る事で納得し、後悔しない人生もあるのではないか。
過去は変えられないが、ふとしたきっかけで過去は簡単に上書き保存されてしまいます。
これから何のために生きるのかによって、今までの人生の意味合いが変わってくると感じる世代はそれを願い、実現させようともがく年代なのです。
後悔する人生とは決断できなかった人生であり 、後悔しない人生とは決断できた人生のことです。重要なのは決断できたかどうか 、自分の葛藤に主体的に決着をつけられたかどうかであり 、どのような結果がおとずれるかはさして本質的ではないとさえいえます。だとすると決断すべきではないのでしょうか。
あらゆる物事に対する鮮やかな二元論的コントラストによって、不惑という迷える世代の心情を極上の恋愛小説に落とし込んだ名作です。
2019年02月10日
今読んでる小説が面白すぎて仕事が手につきません。
こんな本は初めて、いやダンブラウンのロスト・シンボル以来か。
しかも、あろうことか恋愛小説なのです。
ゴリゴリの恋愛小説。
そして、ボーイズビーみたいなチャラい内容でなく、大人の恋愛ものなのです。
決して、新婚の国見さんには読ませられない。
昨日買って、もうすぐ読み終わります。
これはすごい本だ。
これまたとんでもない本に出会いましたので、長文です。
暇な時に読んでください。
弊社、新人研修でヒッチハイクをやってもらいます。
そこには質問力などの雑談力、危機回避能力や他者との関わり方、感謝と幸福の関係性などを勉強し、最終的に成功体験を積むということを目的としてます。
ヒッチハイクを拒否するスタッフもたまに居ますね。ヒッチハイクするくらいなら店の掃除でもした方がマシです、ってな具合です。
まあ、それもいいでしょう。
私が若かった頃にパリからマルセイユまでヒッチハイクした事があります。
フランス語も大して話せない頃でしたので、そりゃまあ大変な苦行でしたよ。
英語も話さないトラックの運転手さんがドライブインで奢ってくれたカエルの山盛りフリットは忘れられない味です。
あの頃まだグルヌイユは庶民的な食べ物だったんだよなぁ。
普段、自分で切符買って予定組んで予定通りに目的地に着くという予定調和に慣れきった若者にはヒッチハイクの意味合いなど理解されないかもしれません。
ヒッチハイクとは、主導権を相手に委ねるという予定不調和の世界に身を投じるということです。
例えば、登山は天候が悪かったら、そこで止めて帰ることが出来ます。マイペースで登頂した後はカップラーメンでも食べて陽のあるうちに下山すれば良い。自転車なら途中で帰って来れば良い。
しかし、ヒッチハイクは乗せてくれる人が居なければ前に進むことも帰ることもできません。
まあ、リタイヤして高速バスなどにのってしまえば予定調和で終われますから、どうしてもの時はそうすれば良い。それについて咎めることはありません。
要は他者に自分という存在を委ねるためにゴソゴソと自分を売り込み、ニタニタと機嫌を取り、あたーすと感謝、という事を繰り返す、まな板の鯉になってピチピチ飛び跳ねるて来る行為なのです。
ヤバそうなヤツは乗せてくれないでしょうし、乗せても会話が続かなければつまらないヤツだ、次のパーキングで降ろしてしまえ、などと簡単にできてしまうわけです。
そこを上手く切り抜ける事が出来ると何とも言えない自信につながると確信しています。
特に海外ではオープルマインドなやつの方がなにかと有利で楽しい日々を過ごせるような気がします。
私は下手なりに自分が何故マルセイユに行きたいか、何を求めてフランスにいるか、日本とはどんな国かを一生懸命説明して時間を稼ぎました。
今となってはいい思い出です。
自分の生活のサイクルや次元の違う世界に足を踏み入れたショーン・エリスというイギリス人の話。
狼の群れと暮らした男
こりゃ、とてつもない本です。
私はこの話が本当か?と、信じられませんでした。
犬やキツネが好きだったエリスが犬の祖先であるオオカミの群れに入り込むという、ルポルタージュ。
動物園のオオカミのエリアに座り込む事から始め、最初は遠巻きに見ていた狼たちがだんだんと近づき始め、何週間かたったあと、いきなりタックルされ、膝の肉を噛みちぎられ、身体を押さえつけられて鋭い犬歯で首元を襲われます。
なんとか立ち直ったものの、そのような耐え難い苦痛が何日も続きます。
少しづつ噛む力も回数も減って来たあたりに狼たちがエリスに身体を擦り付け、匂いを付け始めます。
この時、エリスは自分が群れに入り込めたような気がしたと言っています。
エスカレートしたエリスは野生の狼の群れに入り込むことを決意し、ロッキー山脈にたどり着きます。
動物園のときと同様、野生の狼の群れの縄張りの真ん中に裸一貫で座り込み、動物園の時とは比べものにならないほどの苦痛と怪我を見舞われます。
全てを相手に委ね、似て非なる壮絶なイニシエーションののち、狼が仕留めたアカシカの脚を群れのボスと思しき狼からもらう事で群れの最下層として認識されます。
寒さ厳しいロッキー山脈の冬を群の中に入って身体を寄せ合って温め合い、ハンター役である狼が仕留めた獲物の生肉を食べ続け、いつしか群れの中に安心感を感じるようになるエリス。
この時点で奇跡的な体験をしていると思われたが、更なる奇跡を目撃することとなります。繁殖期を迎えた群れではオス達が子孫を残すためのメスの奪い合いが頻繁に起き、エリスにも凶暴に飛びかかり、痛めつけられ、身体中を噛みちぎられて瀕死にまで追い込まれつつ、なんとか狼の出産のタイミングに立ち会います。
何日かして赤ちゃん狼が巣穴から出てくると、母狼は既に群れのヒエラルキーを子狼に教育を施しており、嬉しそうに飛び回るオス狼に匂いを嗅がれ、舐められしている最中、エリスの所に来た子狼は、乳母役の狼に見せる餌を要求する仕草を人間であるエリスに見せるのです。
母狼はエリスを群れの一員としての教育もすでに行なっていたのです。
この時、エリスは本当の奇跡を体験し、人生観を変えたと言っています。
ーー私はこの生命力と養育の尋常ならざる光景を目の当たりにするにつけ、過去2年間かそこらにわたり驚嘆すべきこの家族に受け入れられたことの光栄をしみじみと感じざるを得なかった。
そして今ここで二匹の赤ちゃんが人間の顔を噛んでは食べ物を噛み砕いて吐き出せとねだっているのだ。私は奇跡を目撃したのた。ーー
こうした意味からもこの本は人間の言葉で書かれていますが、狼が書いた本であるとも言えます。
人間でありながら、狼の視点で世界を見た世界的に見ても唯一の存在です。
何ごとも人間の視点、もっと言えば自分のみの視点で物事を考えるだけでは見えない世界や想像できない位相が存在します。
対人間であってもイマジネーションの欠如が際立つ現代において狼に限らず、普段からは思いもよらない視座に立つことで理解、想像する重要性、恐怖感、面白味はネットにはない体験となるはずでしょう。
それこそが生死の境目が希薄になって予定調和の枠組みの中でしか動くことのできない、予定不調和にストレスを感じてきはしてしまう現代人にとっての処方箋となるはずです。
狼は忌避され、怖れらる存在でありながら、その生態は謎が多く、解明されているとされることも間違いであったことも証明されました。
身体に子を宿した後、自然環境の厳しさに我が子が耐えられそうもないと母狼が判断した時点で胎児は母狼の身体に吸収され
生まれても体の弱い狼に対しては育児を放棄し、生きられる個体にのみ餌を与えることは残酷に思えますが、自然が教える厳しい教訓としてそのDNAに刷り込まれています。
遊びで殺しをせず、食べる以上の殺しはしない肉食動物の生態から我々が学ぶべきものは多い。
群れから離れ、人間界に戻ったエリスは保護狼の教育と繁殖、そして最大のテーマである野生に還すプログラムを現在も続けており、狼の子孫である犬の訓練なども精力的に行っています。
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