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2019年06月30日

もはやアート

 

ウチで出しているカブ。

 

虫食いが芸術的です。

食べられてしまうほど美味しいのです。

 

鹿や猪が荒らす畑は必ずオーガニックの畑です。

彼らにはヤバイ食べ物かどうかが本能的にわかるんでしょう。

 

虫食い野菜出すのか、とクレーム頂く事がありますが、私は虫も食わないような野菜をお客さんに出すわけにはいきません。

鹿児島で

農家やりながら料理やってる弟子からスモモが来ました。

台風が来てるのでその前に急いで収穫したものの、さてどうしたものかという事で送ってくれました。

 

 

 

サクランボみたいな味がします。

そのままで超絶美味いので、手を加えたくないけど、そのままだと芸がないのでジュビレ風に赤ワインでサッと煮てバニラ添えます。

 

とにかく味がいい。

 

色んな模様やキズがヤンチャっぷりを表していて非常によろしい。

さすが、私の萌えポイントを押さえてます。

 

使い倒したエロDVDをお礼に送ってやろう。

2019年06月29日

農家の友人から

こんな内容のメールが。

 

最近〇〇県で一番売上があると思われる産直に出品しているのですが、先日34個納品したうちの27個が店頭にも並べられず着いてすぐに廃棄されました。店側からは状態が云々という言い分でしたが、朝に出して当日の昼に並べられないような物を出しているつもりはありません。何かの手違いではないかと思いたいところです。
昼前に到着した野菜が昼頃に廃棄の回収に回っているトラックに乗せられて捨てられるなど言語道断と言いますか、堂々と言ってのける相手にも開いた口が塞がりません。。参考にもならない異常な一例ではありますが県内一の産直がこの体たらくですので、地方の意識を変えていくのは簡単ではないなと。

 

 

これが生産現場のリアルな声です。

皆さんは何を感じるでしょうか。

 

2019年06月28日

焼きトウモロコシのポタージュ

今年もこの時期が来ましたね。

だいたいコーンスープって言うと缶詰使う事が多いと思うんですけど、せっかくなら生モロコシを使って欲しいです。

 

私は白い果肉が入ったものと黄色と半々でやることが多いです。

白いトウモロコシは最近スーパーでも見かけますが、実はなかなかのストーリーがありまして、黄色いトウモロコシと同じ畑で育てられないのです。

花粉が飛んで混ざってしまうと良くないので、白いものは離れた別の畑に隔離して作らないといけないのです。

 

トウモロコシって今日の形になるまでに色々と進化してきており、それは人の手による品種改良な部分も多いのですが、非常に興味深い生態なのです。

まず、自分で受粉出来ません。風媒花と言われますが、基本的には人が花粉を頭に生えてる毛みたいなものに触れさせて受粉させます。

これはなぜかと言うと、雄しべから花粉が飛び出すタイミングが一足早く、その頃雌しべである実の方は毛が生えてなかったりするんですね。

例えるなら、YES NO枕が旦那の方はかなり前からYESなのに奥さんはまだまだNOで、そのうち毛が生えてYESになる頃には旦那はススキノでタネを飛ばし切ってEDになってしまう訳です。

そこにマラドーナ的な神の手でチョメチョメしてやるとめでたく繁殖成功となるわけです。

これはオッサンの農家さんがたとえ話で言ってました。

これやらないと粒がない歯抜けな仕上がりになり、めでたく実を付けたら収穫です。

さて、ここで疑問点。

では、トウモロコシとは、人間の手助け無しには繁殖できないのではないのか。

今の栽培法と品種ではそうなり、無論野生化出来ないのです。

人間の手を借りなければ繁殖出来ないことはデメリットですが、人間に世話をさせて人工受粉をする事で外敵から身を守れます。自分の実を人間に与える事で生き残ってきたのではないか?

トウモロコシはある意味人間を利用し、その実食べさせる事でお互いの利益を尊重しながら生存競争トーナメントデスマッチに勝ち残ってきたように私は思えてなりません。

そうした意味から人間と狼犬との関係性にも似ています。

 

以前、夜明け前に収穫すると書きましたが、太陽が昇ると養分が実から葉っぱや芽に行くため糖度が下がるらしいのです。

夜明け前に取ったトウモロコシは生で食べても甘いラブジュースがたっぷりでそれはそれは旨いモノです。

今回は藤沢で夜明け前に収穫されたトウモロコシの表面を直火で焼いて煮込んで冷たいスープにします。

ランチのスープとして、ディナーでは濃いめに仕上げてウニでも載せましょうか。

 

トウモロコシはコーンスープや焼きもろこしでしか食べた事ない方がほとんどだと思いますが、実は極論言えば私達現代都市生活者はトウモロコシで出来ているといっても良いでしょう。

 

それはどう言う事?

と、思った方はマイケルポーランの

雑食動物のジレンマ

という本を読んでみてください。

 

2019年06月27日

フレーズデボワ

農家さんの畑でイチゴが野生化したらしく、今年は収穫したんだとか。

そう言う意味ではフランスのフレーズデボワとは違うんですけど、言うならばフレーズソバージュでしょうか。

 

へー、そんなこともあるんですね。

野生的なイチゴは本来の季節に実をつけますよね。

9月にフキノトウが出てこないのと同じです。

 

イチゴは北海道の気候でいうと本来は今時期なんですね。本州ならばゴールデンウィークあたりでしょう。

 

そんなワイルドなイチゴをタルトにしました。

 

みてください、このヤンチャっぷり。

ほんのりした甘さは露地やハウスには敵いませんが、やはり香りは素晴らしい。

酸味も強すぎず、野生感キテます。

甘さは砂糖で出せますが、果物の酸味は足すことが出来ません。レモン汁入れてもレモンはレモンでありイチゴでありません。

野生の鴨が本来の鴨であるように、このイチゴは本来のイチゴです。

足りない甘さはバタークリームで補いつつ、香りを消さないように調整してます。

自分で言ってしまったので

スタッフに味噌作りを教えます。

 

 

 

 

ついでに納豆も作るかって話になってしまい、コトコト大豆を煮込んでます。

夏仕込みなら三ヶ月あれば充分熟成するのでフランス料理屋のエセ手前味噌が秋口に完成する運びとなります。

ハードコアな八丁味噌タイプは好き嫌い出るので、中辛なバランスとれた味噌にしようかと。

お客さんに配るか、湘南ターブルの味噌クリームスープにでもしますか。

 

大豆は洞爺湖の佐々木さんから麹とセットでいただきました。

本当は自分の大豆でやれればいいんですけど、まだまだペーペーなのでそこまでは行けてません。

早くそうなりたいものです。

 

 

 

2019年06月26日

金曜日

ブイヤベースです。

ある程度の人数がまとまらないと出来ないため、通常メニューにはなかなか入れられない料理の1つです。

 

魚介を煮込むためのスープドポワソンですが、白身魚のアラ、カニ、エビの頭、大量の野菜とトマト、白ワインというのが大まかな要素です。

これを鍋でひたすら炒めて炒めて水分を飛ばして生臭さを無くして行きます。

鍋底を敢えて焦がすのがポイントでして、本当に焦げるとダメなんですが、いい頃合いに香ばしく焦がし、後から入れるワインやダシ汁で丁寧に溶かし出す事で独特の風合いが出ます。

なんでも新鮮がいいと思いがちですが、スープは少し時間の経ったアラを使い、出来上がったスープは3日くらい寝かせるといい感じになります。

私の師匠はこれまた特別な作り方で、旨味ペーストみたいな炒め香味野菜とサフランのルウみたいなやつをあらかじめ作っておいて、それを冷蔵庫でカビが生えるくらいまで発酵熟成させてから魚に塗ってマリネしたりスープに隠し味として入れてました。

スープもヤバくなる直前で煮沸してアクを引いて冷ますという事を繰り返して味を深めていきます。

日本人的感覚からするとかなりギリギリ攻めたエッジの立ちまくった仕上がりですが、この感じはなかなか最近では出会えない独特の香りで私はこの感じがたまらなく好きなのです。

今回はこれに少し近いディープな世界をご紹介しますね。

ズッキーニ収穫

我が畑のズッキーニの収穫が始まりました。

 

今年は雨が少なく、成長が遅いです。

各地の農家さんからもズッキーニがたくさん来ておりますので、まだまだズッキーニ料理が続きます。

今日からはズッキーニのボンゴレです。

イタリア料理じゃねぇか、って話ですけど、わかりやすくボンゴレと言ってるだけで、パスタ状にしたズッキーニをアサリの出汁でサッと煮込んだものになります。

 

アサリを見ると私の故郷を思い出しますが、近年は貝毒が出て潮干狩り禁止だとか。

綺麗な海岸埋め立ててヘンテコなテーマパーク遊園地を作ったり、本当に必要かどうか怪しいバイパス作った影響でしょうか。

 

 

 

さて、個人活動止まりだった畑活は2年目に入りまして、日々実践と勉強を繰り返していましたが、来年あたりはもうすこし大きく色々やるかなぁと考えていたところに耕作放棄地なんとかするか話が舞い込んで来て、予定より早く畑を大きく出来ることになりました。

自宅から30分かかりますが、200坪の大農園です。

ここを湘南の店長と一緒に草刈りからやります。まずは大豆で窒素固定から土壌改良して夏蒔きの秋野菜に間に合うかどうか。

 

2019年06月25日

横浜で缶詰

神奈川猟友会の講習会に参加。

レースで疲れてて寝るんじゃないかと思いましたが、実は全くダメージが残ってません。

異常な食欲以外は。

 

それにしても狩猟免許も猟銃所持も奥が深いです。

かなり勉強しないと試験に通りませんね。

 

ここまで来てなんですけど、一体私はどうなりたいのか…

確固たる信念が無ければこれをやり続けるのは難しいシステムを自治体が採用してます。

私の場合は一次産業に貢献したいなどという意識高い系の高尚な人間ではなく、ただ1つの目的の為だけなのですが、果たしてそれが社会的な人間として成立するのかどうか。

2019年06月24日

撃沈

まあ、そんな事だろうな、と皆さん思っているでしょうね。

私も薄々感じており、それが現実のものになったというだけの事です。

こんなに辛かったです、こんなアクシデントあってヤバかった、こんな事やってるオレ達はすごいでしょ?みたいな、毎年同じような言い訳じみた馬鹿みたいなこと書いても仕方ないので、今年は切り口を変えてみます。

私も40歳になり、今までとは少し違う思考になりました。

経験をするということは自分の可能性を広げることです。それは想像力が広がるという事と同義であり、ここまではなんとかなるだろうと思えることです。経験値を積む事で多くのことを予測できるようになる。どのくらい練習すればうまくいくのか行かないのか、登山やサーフィンであれば生きて帰って来られるかどうか、アレが出来たんだからあぁすればできるじゃないのかなぁ、こうしたらちょっと難しくなるかもしれないけどやってみてもいいかもなぁ、この料理はこうすればもっと良くなるなぁ、と想像力が豊かになるという事です。

40歳という年齢は20.30代と色々な経験を積んだ上で迎える年齢で自分の中ではあらゆることに関して最大限予測可能領域が広がり、実行可能か不可能かというかギリギリのラインがわかるようになります。

30代では予想もしなかった馬鹿馬鹿しい行動に挑戦したいと感じるようになります。

少なくとも私の場合は。

 

一方で確実に40代からは経験値に反して体力的な衰えが目に見えて感じる年齢でもあります。今は感じなくても近いうちに確実に落ち始める年齢でもあります。

若い頃のように伸び続けるとするのは現実的ではなく、経験値を根拠とした想像力は過去最大となっていくのに対し、できることは確実に狭くなっていく。勝てていたものがいつしか勝てなくなり若手にいつか負けるという来るべき事実を素直に認める事であり、その遥か先にあるのは逃げられない死、40代とは自分の肉体の衰えと先に存在する確実なる死を意識し始める年代と言えます。

過酷なスポーツを10年もやっていれば、仮に30代であれば1年大した練習しなくても基礎体力だけで走れたかもしれません。

同じ状態をキープするにも過去を上回る大きな負荷をかけなければ確実に落ちていき、思っていたことができなくなっていく。

今回、練習ゼロで走れた距離は

スイム3.8キロ

バイク180キロ

ラン15キロ。

残り25キロ走れるトータルな視点からの練習をすれば完走できたのでしょう。しかしそれは大した問題でなく、私自身が私という精神と肉体とに向き合うための巡礼の旅でした。 私としては経験、基礎体力共にこれで充分です。

しかし、これは本当の私なのか?

1000人の選手に対して4000人のボランティアがいなければ成立しない競技とは、個人の行為としては既に破綻しています。自分の限界への挑戦とカッコつけても所詮はどこまで行ってもゲストとして走らせてもらう、釣り堀で魚釣りしているのと同じような感覚。

トライアスロンとはどこまでも内的な行為であるべきなのにこれだけの外的な犠牲や手厚いサポートの上で競技することに意味をここ何年か見出せずにいます。

エイドが無ければ、もしくはもっと少なければ、もしくは補給は全部自前だったとしたら、どれほどの人が完走できたのか。

私の場合、下手するとバイクすら終えられなかったもしれません。

波の立たない人工的な港内ではなく、ウネリが入るようなありのままの海でスイムやればどれだけの人間が泳ぎ切れたのか。ライフセーバーによる安全確保しすぎると溺れる経験を失って海の怖さと自由を感じる事がなくなり、グレーチングに滑らない蓋をすれば落車の危険予測は必要無くなり、下りのブラインドコーナーには畳が貼られて崖に吹っ飛ぶ恐怖はなくなり、エイドで氷を浴びれば気温28度でもマラソン出来るようになります。

競技、スポーツという枠組みに限らず、安全安心は担保されるべきものでありながら、それが行き過ぎると本当にその個人の潜在的な能力かどうかが見えにくくなります。

ここ数年は一体どこからが自分なのかがよくわからず、ならばと違ったアプローチから同じスポーツに取り組む事で新しい経験をしましたが、身体が朽ちていくこれからの人生において私にとっての新しい経験とは、無駄なものをそぎ落とし、今までの経験値と想像力が及ばない遠いところ、社会でよしとされるシステムや枠組みから飛び出して初心者の頃のようなヒリヒリするようなあの感覚を経験できる何かを始めなければといつも感じるのです。

 

 

 

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