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2019年06月24日

撃沈

まあ、そんな事だろうな、と皆さん思っているでしょうね。

私も薄々感じており、それが現実のものになったというだけの事です。

こんなに辛かったです、こんなアクシデントあってヤバかった、こんな事やってるオレ達はすごいでしょ?みたいな、毎年同じような言い訳じみた馬鹿みたいなこと書いても仕方ないので、今年は切り口を変えてみます。

私も40歳になり、今までとは少し違う思考になりました。

経験をするということは自分の可能性を広げることです。それは想像力が広がるという事と同義であり、ここまではなんとかなるだろうと思えることです。経験値を積む事で多くのことを予測できるようになる。どのくらい練習すればうまくいくのか行かないのか、登山やサーフィンであれば生きて帰って来られるかどうか、アレが出来たんだからあぁすればできるじゃないのかなぁ、こうしたらちょっと難しくなるかもしれないけどやってみてもいいかもなぁ、この料理はこうすればもっと良くなるなぁ、と想像力が豊かになるという事です。

40歳という年齢は20.30代と色々な経験を積んだ上で迎える年齢で自分の中ではあらゆることに関して最大限予測可能領域が広がり、実行可能か不可能かというかギリギリのラインがわかるようになります。

30代では予想もしなかった馬鹿馬鹿しい行動に挑戦したいと感じるようになります。

少なくとも私の場合は。

 

一方で確実に40代からは経験値に反して体力的な衰えが目に見えて感じる年齢でもあります。今は感じなくても近いうちに確実に落ち始める年齢でもあります。

若い頃のように伸び続けるとするのは現実的ではなく、経験値を根拠とした想像力は過去最大となっていくのに対し、できることは確実に狭くなっていく。勝てていたものがいつしか勝てなくなり若手にいつか負けるという来るべき事実を素直に認める事であり、その遥か先にあるのは逃げられない死、40代とは自分の肉体の衰えと先に存在する確実なる死を意識し始める年代と言えます。

過酷なスポーツを10年もやっていれば、仮に30代であれば1年大した練習しなくても基礎体力だけで走れたかもしれません。

同じ状態をキープするにも過去を上回る大きな負荷をかけなければ確実に落ちていき、思っていたことができなくなっていく。

今回、練習ゼロで走れた距離は

スイム3.8キロ

バイク180キロ

ラン15キロ。

残り25キロ走れるトータルな視点からの練習をすれば完走できたのでしょう。しかしそれは大した問題でなく、私自身が私という精神と肉体とに向き合うための巡礼の旅でした。 私としては経験、基礎体力共にこれで充分です。

しかし、これは本当の私なのか?

1000人の選手に対して4000人のボランティアがいなければ成立しない競技とは、個人の行為としては既に破綻しています。自分の限界への挑戦とカッコつけても所詮はどこまで行ってもゲストとして走らせてもらう、釣り堀で魚釣りしているのと同じような感覚。

トライアスロンとはどこまでも内的な行為であるべきなのにこれだけの外的な犠牲や手厚いサポートの上で競技することに意味をここ何年か見出せずにいます。

エイドが無ければ、もしくはもっと少なければ、もしくは補給は全部自前だったとしたら、どれほどの人が完走できたのか。

私の場合、下手するとバイクすら終えられなかったもしれません。

波の立たない人工的な港内ではなく、ウネリが入るようなありのままの海でスイムやればどれだけの人間が泳ぎ切れたのか。ライフセーバーによる安全確保しすぎると溺れる経験を失って海の怖さと自由を感じる事がなくなり、グレーチングに滑らない蓋をすれば落車の危険予測は必要無くなり、下りのブラインドコーナーには畳が貼られて崖に吹っ飛ぶ恐怖はなくなり、エイドで氷を浴びれば気温28度でもマラソン出来るようになります。

競技、スポーツという枠組みに限らず、安全安心は担保されるべきものでありながら、それが行き過ぎると本当にその個人の潜在的な能力かどうかが見えにくくなります。

ここ数年は一体どこからが自分なのかがよくわからず、ならばと違ったアプローチから同じスポーツに取り組む事で新しい経験をしましたが、身体が朽ちていくこれからの人生において私にとっての新しい経験とは、無駄なものをそぎ落とし、今までの経験値と想像力が及ばない遠いところ、社会でよしとされるシステムや枠組みから飛び出して初心者の頃のようなヒリヒリするようなあの感覚を経験できる何かを始めなければといつも感じるのです。