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2019年11月13日

牡蠣のムニエル

私の畑を冬野菜に植え替えました。

これ、何かわかります?

そう、ブロッコリー。

 

 

これは?

 

いえ、違います。

白菜です。

すでに虫に喰われており、軽く落ち込んでます。

 

キヌサヤとルッコラは自民党と日本会議みたいにお互いに助け合う間柄なので、同じ畝に植えます。

 

ほうれん草も植えましたが、まだまだ小さい。

牡蠣が出始める時期と、ほうれん草は微妙にズレてます。

料理ありきならば、ほうれん草なんでしょうけど、とりあえず今は人参しかありませんので、人参の煮込みと牡蠣のムニエルです。

 

これはこれで美味しいんです。

 

 

明日は変態農家からポワローが届きますので、ポワロー、ジャガイモと牡蠣の煮込みです。

いやー、最高の組み合わせ。

 

 

輿さん、あたーす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京モーターショー限定とか。

ウチのガキがトミカフェチなのです。

 

 

それにしても最近のミニカーってすごいですね。

値段も高くないので、何かと機嫌とる時に買って与えてしまいます。

特に危険なのは中央道の下り、談合坂サービスエリアのトミカゾーンは絶対足を踏み入れてはならない場所。

実家まで2時間の予定が大幅に狂うことになります。

まあ、私も車が大好きでよくオネダリしていたので気持ちはよくわかります。

ウチのガキは男2人なので、男2人兄弟だった自分の幼少期をなぞるような感覚です。

要するに予定調和です。

ああ、ミニ四駆ね、

ああ、ラジコンね、

ああ、朝勃ちね

私はロバートハリスさんのように、子供とエロい話がキチンと出来る父親になろうと思っています。

 

2019年11月12日

体験が欠如している世代

圧倒的に現場での体験が欠如している世代が、団塊ジュニアの私たち世代です。

生まれた時から車もテレビもジャスコも一通りなんでもあって、どのように生きるか、という点においては

“積極的に生きている”というより、

“消極的に死んでない”という方がしっくり来るのです。

私達世代は自分自身の生の存在と手応えを確かめるために山に登ったり自転車漕いだり台風にサーフィンします。

生きているという手応えは自分で獲得したのもではなく、生まれた時にすでにあった文明から与えられた快適な生活に対して少し申し訳なさとやましさを感じ、かすかな疑問を持ちながら特に乾いた欲もないまま何故か料理人になりました。

そんな子供の頃からの当たり前に与えられた快適な環境を引きずったまま、憧れたヨーロッパの料理を大した体験もしないままに真似事をし、誰かのレシピに従い、ファックスで届いた誰かが育てた肉を使って、自分の表現と称する料理を作り続けた結果、私達世代の料理人が一体何を語れるようになったのだろう。

体験を失えば、それに付随する感覚や感情も失うことになり、そもそも体験という概念すらなければ命を奪うことすらしなくなり、命を食べている事まで忘れてしまう。

 

人間中心主義の中でオーガニックや海洋資源や動物愛護を体験の伴わない薄っぺらい言葉で語ったところで、環境問題の本質を突き詰めた先にどんな答えがあるのかは誰もがわかっているはずです。

 

私たちが生まれるはるか昔の漁師や猟師、農家は人間中心に物事を捉えられるほど文明の恩恵を受けておらず、天変地異に怯え、時に暴力的な自然環境の中で折り合いをつけながら生きてきたはずです。

言い換えれば、文明に毒されてないから、より自分の力で生きていたといえます。

より自分の力で山に登れば正しい手応えがあり、正しく食べることは手応えのある生き方につながるはず。

私が狩猟を考える時、生きることと殺す事の矛盾についてのヒントを得たのは、アイヌのイオマンテと宮沢賢治でした。

イオマンテは冬眠しているヒグマをかり、ヒグマを連れ帰って集落で2年ほど育てたあと、首を丸太に挟んで殺して集落全員で食べる儀式です。

この熊送りの儀礼は野蛮なのでしょうか。

野蛮と感じるのは、それが子熊であることではなく、自分たちで育てた動物を食べるという行為そのものにその本質が潜んでいる。

現代において、生き物を可愛がる事と殺して食べることは両立しない。

しかし、熊の頭以外の皮は服てし、内臓は薬とし、肉は食べ物として全てを無駄なく頂く事で神への感謝を捧げることとして殺しと生きるを肯定します。

それは生き物と人間を境界線で仕切った上での建前論の共存関係ではなく、生き物無しには生きていくことが出来ないという止むに止まれない共生関係があるのです。

なめとこ山の小十郎は熊と対等の関係にありました。

現代は熊を殺さなくてもマツキヨとユニクロとハナマサに行けば全て揃ってしまう。

ペットと家畜は別の生き物で、ペットは家族で家畜は食べ物です。

 

私はそんな当たり前のタブーと常識を疑い、狩猟から料理をする事で

今、俺は生きている、

という体験してみたいのです。

 

 

 

2019年11月10日

私は

バカなので、自分の頭で考えて納得し、自分なりの言葉を見つけたからでないと、もしくは自分がこれってこうなんじゃねぇの?って言う仮説がなければ動けません。

 

大江健三郎が本の中で知り合いに諭す場面において

本読んだり、話を聞いたとしても、あらゆることに対して、自分なりの言葉を用意しておきたいんだよ

と言うような事を書いてました。

それを読んだ時、ああ、なるほどな、と。

今ではネットでなんでも知る事が出来ますが、それらを自分の経験から自分の言葉で語れる人が逆に今、どれだけいるだろうと考えるわけです。

フランス料理に関しても、本すらも読まずネットからシェフの動画まで出てきます。

そこには飛行機に乗ってわざわざ食べに行ったり、不法に働いて盗み見るようなウェットな感覚はなく、手軽にカジュアルにドライな世界が広がっています。

私が体験したフランスは、カラッとした気候とは裏腹にジットリした雰囲気がプンプンするウェットな場所で、日本人を中国の一部と考えるようなフランス人が珍しくない所でした。

祭りの日には名前を付けて飼っている羊を捕まえてこいと言われて捕まえ、作業台の角に頭をぶつけて失神させて解体し、焚き火で丸焼きにした事もあります。

名前をつけて残飯を食べさせる飼い羊を殺して食べるという行為に私は度肝を抜かれました。

しかし、食べるとはこういうことか、と理解した事でもあります。

日本で爺さんの爺さんの代には当たり前にあった光景はいつのまにか無かったことにされ、パックで買って料理することが当たり前になりました。

その分、生き物が食べ物になる瞬間は覆い隠され、蓋をされて無かったことになり、生き物は動物園で見るものであり、食べる動物はどこか別のところに居る何か、なのです。

私たち料理人も全く同じ、肉は獲りに行くものでも育てるものでもなく、ファックスで届くものなのです。

わざわざ狩猟免許取って生き物を殺しに行く理由はここにあります。

ジビエを店で出したいからではありません。

生き物を食べ物に変える行為は現代の日本では屠殺場で働くか、狩猟に出るかの二択しか残されていません。

もちろん、釣りや畑でもいいでしょう。生き物という点に於いては魚も野菜も生き物です。

しかし、同じ大型哺乳類をこちらの都合で殺す事はその行為の意味合いからして鋭利になります。

ここでずっと引っかかっていた問題にそろそろケリをつけなくてはならない時期になりました。

今月から狩猟期間に入るからです。

中途半端な気持ちで始めるつもりもなく、家族ともぶつかり、警察やお客さんから若干蔑むような目線で見られる機会も多くなりした。

だからこそ、自分なりに始める前と後に自分なりの言葉を持っておきたい。

リアルにいうならば、生き物を殺す前と、殺した後です。

 

自分の中にケリをつけて狩猟者としての言葉を編む時に立ちはだかる最大の壁、それは生き物に殺していいものといけないものの線引きは一体どんな意味を持つのだろうか、という事です。

 

先日、うちの飼い犬が瀕死の状態まで行きました。検査の結果は悪くなかったのですが、一時は早くて1ヶ月、長くても3ヶ月かもと宣告されたのです。

涙が止まらず、人前で大声で泣き、来るであろう絶望感に完全に打ちのめされたのです。

苦しみながら死ぬのならば、いっその事、この手で終わらせた方が犬にとっては幸せなのではないかと頭をかすめましたが、そんなことは当然出来ません。

私にとっての犬という存在は、これから殺しに行く鹿や猪と何が違うというのか。

私が狩猟に行くせいで、今この瞬間も野山を駆け回っている鹿が余計に死ぬことになります。

 

私にそんな権利があるのか?

人間社会として許認可は取れました。しかし、倫理的に私に生き物を殺す権利など、飽食の現代において存在しないはずです。

食べるものなんて捨てるほどあるからです。

頭数管理、森林保護、生態系の保全など人間中心主義的なこじつけならばいくらでもあります。

可哀想なペットを産まないために去勢させられた犬、育ち盛りのカルシウム不足のためにミルクを強制的に絞られ、枯れたらまた妊娠させられらる牛は、子孫を残す子を育むという生命の本能や存在意義すら無視した人間の歪んだ人間中心主義的倫理観は正しいのか。

 

その最先端の先っぽである動物愛護、動物倫理の精神からより良い環境を整えられた家畜たちは結局殺されて食べられるにも関わらずより幸せに死を迎えるのだろうか。

私に権利があるとするならば、義務とはなんなのか。

倫理学的に義務とは完全義務と不完全義務に分けられます。

完全義務とは義務を持つものに対応する権利がある場合に限られ、それがない場合は不完全義務と言うそうです。

例えるならば、約束を果たす義務がある場合は約束した相手に完全義務があり、慈善事業のような相手に権利が発生しない場合に不完全義務となります。

私が鹿や猪を尊重する義務があるならば、動物の権利と同値となります。

では、いつも通りに野山を駆け回り、繁殖することが獣の権利ならば、わたしにとっての獣を尊重する義務とは一体なんなのか。

 

 

 

2019年11月09日

大根の季節ですね。

新しいスクランブルの店でも大根と牛肉の煮込みをやろうかとおもいます。

 

 

そういう料理もバンバン出せるのが惣菜屋のいいところです。

 

 

このほかにも紅シグレや赤大根が沢山来てます。

今日はサンマのマリネに添えます。

 

 

 

 

 

昨日、北海道の変態農家の中田さんからSOSありました。

注文貰って作っていたポロネギがキャンセルされて行き場を無くしてます、とのこと。

おいおい、作ってくれって農家にお願いしておいてキャンセルなんてあり得ねぇな。

ここはターブルオギノの出番だろうと。

開発部門にそんな経緯を話して、ポロネギ料理が近いうちに並びます。

ポロネギならばザクザク切って冷凍も出来るしね。

 

 

鳥とポロネギの煮込みか、ポロネギのマリネ、ポロネギとジャガイモと牡蠣の煮込みなどなど、ポロネギ料理は無限にあります。

レストランでも牡蠣とポロネギで何かやりますかね。

 

 

 

旨さとは何か

私も良い歳なので、最近は見て盗んで覚えろ、という事はあまりなく、タイミングが来たと思えるスタッフには丁寧に教えています。

特に肉焼きに関しては経験がモノを言うジャンルなので基本的な事は一通り教えます。

 

でも、ソースでも肉焼きでもなんでも同じ手順踏んでも私と同じようには絶対にならないんですね。

これが不思議と。

 

なんでかな、と考えるんですけど、答えは簡単。

味覚の経験が少ないからなんです。

同じ牛でもハラミとサーロインとヒレでは繊維の入り方から焼きのポイントも微妙に違いますし、合わせるソースの油脂分や濃度も微妙に違う。

焼き加減がロゼなのか生っぽいブルーなのか少し強めのアポワンなのかによっても肉の味は変わります。

その微妙な違いは作り手の個性であり、一様にこれが正解というものでもない。

 

そもそも味なんてものは主観と主観のぶつかり合いなので、私が旨いと思ったモノが旨いと思ってもらえるかどうかは別次元の話です。

 

料理人は自分が旨いと思うものを作り、それが受け入れてもらえるかどうかで決まりますが、それは店をやっている場合に限られます。

ウケ狙いで味を修正していくとおかしな方向に行くことになります。

料理人という生き物は、作った物がお客さんに受け入れられるかどうかは、この際どうでもいいと言うとまた叱られますが、これで良いと思ったものがウケなくても、実はそんな事どうでもいいと思ってるんですよね。

 

これがレストランの難しい所で、表現と商売を両立させる事、もしくは個性を殺して儲けようが目的になってしまうとダメなんです。

もっとこうすれば旨いと思うけど、それやっちゃうとウケないからやらない、というベクトルに思考が向くのです。

いや、商売的な原則からすれば、それがある意味で正解なんでしょうけど、表現者としてすべき事をお客さんのせいにしてしない事は料理人としては失格なのです。

 

そのためには自分が心から旨いと思える味覚の経験がどれだけできるかどうか。

日本人が作る料理の日本にいてもなかなかその体験は出来ません。

やはり価値観のちがう食文化にどっぷり浸かって考えないとダメなんです。

若者よ、冒険に出ろ。

 

だから何が言いたいんだ?って話なんですけどね。

 

 

 

2019年11月08日

セルヴェル

いま読んでいる本がとんでもないです。

物凄い本に出会ってしまいました。

ここ10年でダントツの一冊。

これまで食にまつわる話で、感銘を受けた本はその殆どが海外の作家でした。

これは日本人から日本の食の問題を日本の制度、これまでの数々のルポ、倫理哲学書などを細かく参照して切り込んでいます。

 

あるお客さんから、

 

今まで動物の死体を料理してきて、これからは自ら猟と称して生き物を殺しに行くお前の生とは何か、その意味について考察を述べよ、

 

と宿題を頂いているので自分なりに考えている最中に出会った一冊。

やはり、本はAmazonではなく書店での偶然の出会いが良いですね。

 

 

さて、その本は読了したらここにまた書きますが、そんなテーマのこの料理。

 

 

 

豚の脳味噌のムニエル 黒バターソース。

脳味噌は芝浦直送の別注品です。

普通に売ってもらえません。

脳味噌はフランスのモツ屋に行くと普通に売ってます。だいたいが仔牛か仔羊ですが。

日本で脳味噌食べる文化は秋田のマタギかアイヌ、沖縄くらいしか無いのではないかと思います。

 

これも立派な食材でして、それなりに色々料理法があります。

昔は鮮度の問題があったので牛乳に漬けて臭みとったりと下処理ありましたけど、今は朝どれなので、不要です。

 

これは美味しいですから食べに来てくださいとは言えない料理です。

しかしながら、こういうものも美味しいよね、と思える経験値がある事が人生を豊かにすることは間違いなさそうです。

周年ディナー追加します

席数絞って、と思いしましたがやはりかなりのお叱りをいただきまして、そんなことでは駄目だと改心して地下の席も開放することにしました。

 

すでに予約出来る様になってますので、コンチクショーと思われていた皆様、是非ともよろしくお願いします。

2019年11月06日

マジですか

某の空の下、某シェフが大怪我からの後遺症で脳外科手術された模様です。

 

そして病院にいるはずのパリの某の下の某シェフからリクエストが届いたんですね。

 

“私は脳ミソを食べないといけないのだ”

 

おおお、貧血にレバー、出血多量にブーダンノワール、骨折に豚足、そして脳外科手術に脳ミソですか。

 

さすがはパリの空の某の巴某ェフ、思想が下界離れしてます。

 

そのうち、心臓強化のために鹿のハツ刺しあたりのオーダー来そうです。

 

ということで、こんな機会でないとセルヴェル料理を提供できないので、もし興味有れば今週末に少し多めにセルヴェルやりますので、ご予約お待ちしてます。

 

ちなみに誤解を恐れずに言えば、某シェフだけは私が納得いく料理が出せない時は予約自体を断固拒否という飲食店として最高のサービスをする顧客であることを付け加えておきます。

これは多摩川河川敷での手出し無し、チクリ無し、ギブアップありの決闘タイマンみたいなもので、お互いの絶対的な信頼関係と対等意識が無いと成立しないという究極ガチンコ勝負の形ですね。

 

 

 

2019年11月04日

悲報

 

デカイ穴熊だったので期待に股間を膨らませておりました。

解凍できたので早速皮を剥いで、皮は鞣して車の座布団にしようかなぁと。

肉はテリーヌかなぁと。

 

 

解体してみてビックリ仰天。

あまり詳しく書くと本気で吐き気を催す方もいると思うのでやめときます。

 

という事で、穴熊はお蔵入りとなりました。

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