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2019年05月16日

いきなりですが

6月から前菜をお任せにさせて下さい。

 

その代わり、前菜は3皿いきましてチョイスのメインとデザートです。

金額は変えない予定ですが、消費増税が控えているので便乗値上げするかもしれません。

 

それは冗談ですが、とにかくいろんなものが値上げしてますので、そろそろウチも天井が見えてきておりまして、使いたい肉が使えなくなってきてますので、コース値段は少し考えます。

 

お任せにする理由としては、綺麗事を言わせていただくならば、美しい料理を作りたいからです。

 

私の定義する美しい料理とは、

盛り付けの美しさでなく、全てプロセスに集約されます。

出来上がった料理が旨いのは前提であって結果では無い。

大切なのはプロセスなのです。

美しいプロセスを経た料理を提供するためです。

これからはなるべくパーツで肉を買うことをやめます。豚も一頭買って各部位を前菜やメインに分けて料理していきます。

有る時は有るけど、無くなれば終わりです。

既に鹿肉は一頭をバラして使ってますが、やはり圧倒的にプロセスが美しい。

それがお客さんに伝わるかどうかはもは私にはどうでもよく、お客さんにとっても一頭料理していることなど、もはやどうでも良い話です。

前菜に使用する野菜も農家さんがその時一番自信のある野菜が来てますし、私が湘南野菜買うときも最高のモノを買ってきます。

それらを見て組み合わせ、最高に美しい状態で出したい。

フォアグラのテリーヌは食べ頃がありますし、肉は熟れ頃があり、野菜は何もかもが新鮮が良いとも限らない。

美しい食べ物には美しい食べ頃があり、逃したく無いし、無駄を出したく無い。

 

それが理由です。

 

お前都合じゃねーか

と言われれば、そうです、と答えます。

 

料理という表現方法に実用性や有用性を求めるかどうか、という哲学的な問題点にずっと悩んできました。

ここでいう実用性とは、要するにウケるかどうかで料理を作るかどうかであり、それは表現方法なのかどうかという私自身の葛藤です。

料理はもはや食べ物を美味しくするという事から離れて表現方法となっています。

何かを作る場合、川下にお客さんが居て初めて成立するものは表現になるのかどうか。

 

 

 

今日はグリンピースが大量に各地から打ち合わせしたかのように一気に来ました。

グリンピースって選択肢に入れると人気無いんですよね。

あの半生のプチっていう食感と青臭さが嫌いな人が多い。

でもね、グリンピースのフランス風という煮込み料理があるんですけど、完全に色が飛び切るまでグツグツ煮込むとメチャメチャ甘くなるんですよ。最後にサッとザク切りレタスなんか入れたりして、焼いた鶏肉にめちゃくちゃ合う。

それをピュレにして冷やして少し生クリームで膨らませると、ビビるくらい美味い。

そこに生のエビとかキャビアとかの甘さのある塩味がよく合う。

そういう体験は食べてもらわなけりゃ出来ないんです。

だから、グリンピース嫌いな人に食べて欲しいグリンピース料理があるんですよ。

 

これも表現方法の1つでは無いかと思うようになりました。