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2020年01月12日

ダイジェスト

https://s.r-tsushin.com/2QDoEIc

 

11月の料理通信カンファレンスのダイジェスト。

ダイジェストなので本当にダイジェストです。

ダイジェストって言いたいだけ。

詳しくは誌面にて。

まあ、私が何を話したかはここでも詳しく書いたので今更説明する事も必要ないですが、私と近藤さん以外の皆さんはこんな感じでした、というニュアンスで読んでいただければ。

 

パタゴニアの近藤さんとは何度かこうしたトークイベントやってるんですけど、同じく感じる所として、会場の熱気が最高潮に達し、スピーカーも言いたいことが言えていい感じに終えられて片付けしてふと会場からの帰路、自分達のやっている事は果たしてどれほどのインパクトが残せたのだろうか、と都会の喧騒に自己陶酔感に似た達成感が掻き消されたあとに襲ってくる無力感です。

 

経済活動優先で考えたとき、大量生産大量消費の資本主義を否定する私たちはカウンター的であり、ある意味で反社会的であるとも言えます。

ありとあらゆるものの価値が貨幣に変換される現在において、自然や環境を貨幣に換算すると何百兆ドルにも匹敵すると言われています。

なぜ金が稼ぎたいのか

いい車に乗りたいからだ

なぜいい車に乗りたいのか

いい女にモテたいからだ

なぜいい女にモテたいのか

と幸福を金に求め、何故を重ねていくと、次第にその出どころはわからなくなり、最後には、人はなぜ生きるのか、という人類史上、誰も解き明かしたことのない壁にぶち当たります。

 

それが自己陶酔であれなんであれ、こうした活動をする事で誰かのためになる気がしているだけで本質的には自分のためにやっているという事にすがるほかないのです。

 

結局、仏教にあるように、人間社会における幸福とは感謝の量に比例するという事が真理なのかもしれません。

独り言

パリのマドレーヌ寺院の地下にできた困窮者に向けた無料レストラン。

フランス料理のコックがキチンと料理を作っています。

そして食材はスーパーから寄付されます。

食品廃棄法が成立したフランスで一定規模の小売店は食品ロスすることが違法となり、慈善団体への寄付が義務付けられました。

日本ではそれっぽい名前の法律ができましたが、中身は空っぽのスッカラカン。

罰則はなく、努力目標というていたらく。

 

加えて、こうした流れに対して出てくる腐った反対意見として多いのは経済合理性と貧困問題が直接結びつくことの是非。すなわち余ったものを廃棄するコストを下げるために寄付するという事が許されるのか、という事。

この点については私も生産者の1人として感じるに、材料である素材を作る側の視点が欠落しており、生産者はどういう形であれ自分が作ったものが誰かの血肉になることは喜ぶべきことであって小売や外食の勝手な論理やルールの上で論じられる事柄でない。

潔癖性の日本人には…という顧客のせいにして食べられるにも関わらず捨ててしまう小売業界のお客を馬鹿にした商習慣はもはや自主規制なんて生温いやり方では変わらないので法律で縛るしかない。

 

 

もう一つはゴミを食べさせるのか、という人間の尊厳を否定しているという意見。

ゴミとは一体なんなのか。ゴミかゴミではないのかを判断するのは一体誰なのか。

10年前、まだ食品ロスなどという言葉が無かった頃、規格外野菜で惣菜を作ろうとしたとき、私は後ろ指を指され、荻野はゴミを売って商売していると言われました。

規格を外れた大きすぎる豚や曲がったニンジンはゴミという当時の価値観と、農家が頑張って育てた野菜はどうであれ野菜である、という私の考え方の間に横たわる大きなクレバスのようなギャップをどう埋めていくのかが私の大きなテーマでした。

小売から出る廃棄予定商品や生産地で出る規格外野菜をゴミとして定義する人たちは、そうした食材を用いたパリのレストランに通わざるを得ない人々に対して君たちが食べているのはゴミなのだよ、と感じているとしたら本当に本当に心が痛む。

1番避けなければならないのは、そうした制度からもこぼれ落ち、誰も管理していない本当のゴミを食べなくてはならない状況に追い込まれることであって、もはやどんな食事を誰か提供するかということよりも、そのレストランを利用したり何かをもらいに行った際でのコミュニケーションの次元の問題点が大きい、というかほぼそのポイントが全てです。

私がフードバンクにボランティアに行ったとき、団体としてやはり1番考えられていたのは、配給される食品の受け渡し方法であったり、上野公園での炊き出しでのコミュニケーションだった。

淡々とこうした活動を行い、運営側としてお金ではない何かを得られる事は大きな意味があると思う。

ましてや毎日大量の食材と向き合い、沢山の料理をお金持ちのお客さんに作って糧を得ている料理人が食品ロスと貧困について考える事は必須。

生産現場と消費のアンバランスな部分に触れ、料理人とはどうあるべきかという仕事の本質を考えるときこそ、食材と食べ手を繋ぐ事の意味が分かるのではないだろうか。

どうにもならなかった食材も料理人が触れば美味しい食事になり、誰かのお腹を満たすなんて、なんて素敵なことなんだろう、と。

2020年01月11日

蟹とみかん

蟹とパンプルムースって組み合わせは古くからありますけど、別にミカンでもいいじゃない。

 

だってウチにはミカンの木がありますから。

 

ということで、カニと大根のレムラードにミカンのゆるいジュレをかけた前菜。

塩味がイマイチなってこなかったのでイクラも載せることにしました。

イクラはあくまでも塩扱いでメインではない。

メインはカニとミカンです。

 

 

真打登場

リドボーのムニエルいきます。

 

普段は軽い煮込み、フリカッセが多くてムニエルほとんどやりませんでした。

 

やはりムニエルの旨さは外せない。

下茹でして臭みを抜き、表面の薄膜剥がしてからプレスして血を抜き、粉振ってたっぷりのバターで焼くのです。

とはいえ、この旨さを理解してくれる人ってあんまりいないんですが。

 

さて、ヒドリカモです。

ヒドリカモは綺麗な羽をしていて、

私は狩猟鳥のヒドリカモですよ、ここにいますよ。ヘイ、カモン!

と、アピールしているので非常に狙いやすいんですね。

今では鴨猟は殆どが網になってますが、鉄砲撃ちには狙いやすい鴨です。

 

鴨類はいろんなのがいますけど、大きく分けて陸カモと海カモがあります。陸カモはマガモとかカルガモとか、まぁ一般的に良く食べられる旨いカモで、田んぼで落穂拾いしてるヤツです。

対して海カモってのは青カモとかで魚を食べるので生臭みが強くてあまり旨くない。

 

今日のものはそんなに大きくないので、一人前一羽いきます。

これも理解してくれる人がそんなに居ない食材なので、とうしたもんか。

鴨って一般的なのは全部アヒルとかガチョウと掛け合わせてるハイブリットなんですよ。

だから、純血統の鴨ってこういうやつなんですけどね…

 

 

 

 

キウイって

今が旬なのをご存知でした?

 

そう、1月なんです。

南半球から送られてくるキウイが一般的なので暖かいイメージですが、本来の収穫期はちょうど今なのです。

 

うちの畑でもキウイが取れてまして、形バラバラなヤツをソースにしまして、ブランマンジェのソースにします。

 

パリのコントワールで食べた思い出のデザート。

2020年01月10日

危険行為

どこやらの山、確か日光白根山あたりでは入山規制として、厳冬期の携帯型GPSを義務化したみたいですね。

それを持っていれば遭難したときにヘリが見つけやすいとの事。

それは素晴らしいではないか、という声が多数。

トレイルランニングレースでも必携装備とされているとか。

え?本気ですか?

何しに山に行くんですか?

しかも厳冬期ですよ。

遭難したときに見つけやすい事は確かに日本人の大好きな自己責任論からすれば歓迎すべき事なのでしょう。

もしもの時に見つけやすい、というのは一種の安心感です。

でも、その安心感て必要ですかね。

登山とは都市生活者の道楽です。自然に近い暮らしをする人に登山は必要ありません。

自然に近い暮らしというのは、動物的な暮らしです。そういう意味では出産してガチで子育てしているママさんに登山なんて必要ありません。子供って野生動物みたいな大自然そのものなので、わざわざ自分の野生感を確認するために登山や狩猟なんかしなくてもすぐ横に大自然があるからです。

私は子供が産めないから山にでも登って鹿か何か撃ち殺さないと野生を忘れたルサンチマン野郎になってしまうから仕方なく山に通うわけです。

登山がスポーツではないという点は審判がいない、という事に尽きます。

もしもの時に助けれもらう事を安心感として山に入る事は登山を汚します。登山を自由というコンテキストで語る場合、そんなGPSでトラッキングできることの価値が私にはわかりません。

登山における遭難とは、登山における自由と同じ地平にあり、予め設定されたゴールと帰るっぽい時刻があるから、それを大幅に遅れるから遭難になるだけであって、多少迷っても自力で帰ってこられれば遭難にはなりません。

どんなルートで登っても良いし、登頂しなくても良いし、登山道使わず岩壁を登ってもいい。

 

極論言えば、道に迷って帰るのを諦めたからこそ死ぬのであって、それは自由の範疇です。

どこで寝ても良いしウンコしても良いという圧倒的な自由を求めて登山するのに、ちょいヤバそうなら助けてもらえる安心感を携えて山に入る事に価値を感じるのは管理されるのが好きな現代人らしい選択なのでしょう。

私が考える最も美しい登山とは、山に入ったまま行方不明で1〜2年ほどしてみんなが忘れた頃に何食わぬ顔で極寒の山から降りて来るという完全な自活生活を山で半野生化して行っていた原初のアイヌ民族です。

そんな事ができる日本人は私の知る限り4人しか居ませんが、私は猛烈に憧れます。

 

前置きが長くなりましたが、たまたまウチの店がある本屋に行ったら、これまたとんでもない本に出会ってしまいました。

本屋って本当に危険な所で、読書とは危険極まりない行為なのです。

息子の鼻くそ掘りながら歩いていて、たまたま出会った本で人生変わってしまう可能性があるわけですから、GPS持って登山道をなぞるだけの肉体労働的ハイキングよりはよっぽど危険度が高い場所です。

 

 

 

 

2020年01月09日

フォアグラ行きますか

土曜日から通常運転です。

月曜が祝日なので、ランチディナーの3連発ですね。

飛ばしていきたいと思いますので、ぜひドシドシお越し下さい。

 

正月に沢山食べて贅沢したから太った?

言っときますけど、1番痩せる料理ジャンルは和食でもイタリアンでもなく、フランス料理ですよ。

これは断言します。

先日のイベントでご一緒した北里大学の山田先生も断言してます。痩せるのはフランス料理です。

パンと芋さえ抑えれば糖質は限りなくゼロですからね。

他の料理ジャンルは砂糖が多用されますし、炭水化物が多い。

脂肪が太るというのは過去の話です。

まあ、どれだけ食べたとしてもエネルギー収支が赤字になれば何食べてもいいんですけどね。

要するに、人間の基本はよく働いて沢山歩いてよく食べていっぱいウンコしてしっかり寝るという事です。

 

だからフォアグラなのです。

今回はコンフィにします。

マリネしたフォアグラを自身の脂でしっとり火が入るという例のアレです。

1番ナチュラルな仕上がりになります。

血管掃除してテリーヌもいいですけど、イジるので脂が出やすい。

なるべくシンプルに料理する事で風味が殺されない。

ネッチョリ、ムッチリ、ジットリ。

旨そうでしょ。

前菜は北海カニいきます。

北海道のカニと大根、イクラのサラダですかね。

この辺は明日野菜の顔見てから決めますが、久しぶりに大根のレムラードなんてよろしいのでは。

ウチのミカンも入れちゃいますか。

 

 

 

2020年01月07日

あけましておめでとう御座います

あけましておめでとう御座います。

今年も宜しくお願いします。

怒涛の2019年が締まり、新たな一年が始まりますね。

今年はどんな事がおこるやら。

人生にギャンブル性や麻薬性が強すぎて麻雀すらやる気にならなかったこの正月。

ブログが滞ってていたので、いろんな方から、荻野生きてるのかメール頂いてしまいました。

 

遂に冬山で死んだか…

 

そんな憶測が飛び交い、死んだフリするのもたまにはよろしいかと思いまして黙っておりました。

 

というのも冗談、いや冗談でもないのですが、正月はデジタル機器から離れようと思いまして実家で子供とLEGOばかりやっておりました。

 

さて、店は10日から再開しますが、私個人はシコシコと動いております。

昨日は某大手インフラ企業さんと3月にリニューアルする食サイトのお手伝い、明日は某企業さんで食品ロスのセミナーやって来ます。

いよいよ何屋なのかよくわからなくなって来ましたが、私は料理しかできませんので料理で何かしら自分を表現出来れば、店に限らずそれはそれで良いかと思うようになって来ました。

 

 

 

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