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2020年01月12日

独り言

パリのマドレーヌ寺院の地下にできた困窮者に向けた無料レストラン。

フランス料理のコックがキチンと料理を作っています。

そして食材はスーパーから寄付されます。

食品廃棄法が成立したフランスで一定規模の小売店は食品ロスすることが違法となり、慈善団体への寄付が義務付けられました。

日本ではそれっぽい名前の法律ができましたが、中身は空っぽのスッカラカン。

罰則はなく、努力目標というていたらく。

 

加えて、こうした流れに対して出てくる腐った反対意見として多いのは経済合理性と貧困問題が直接結びつくことの是非。すなわち余ったものを廃棄するコストを下げるために寄付するという事が許されるのか、という事。

この点については私も生産者の1人として感じるに、材料である素材を作る側の視点が欠落しており、生産者はどういう形であれ自分が作ったものが誰かの血肉になることは喜ぶべきことであって小売や外食の勝手な論理やルールの上で論じられる事柄でない。

潔癖性の日本人には…という顧客のせいにして食べられるにも関わらず捨ててしまう小売業界のお客を馬鹿にした商習慣はもはや自主規制なんて生温いやり方では変わらないので法律で縛るしかない。

 

 

もう一つはゴミを食べさせるのか、という人間の尊厳を否定しているという意見。

ゴミとは一体なんなのか。ゴミかゴミではないのかを判断するのは一体誰なのか。

10年前、まだ食品ロスなどという言葉が無かった頃、規格外野菜で惣菜を作ろうとしたとき、私は後ろ指を指され、荻野はゴミを売って商売していると言われました。

規格を外れた大きすぎる豚や曲がったニンジンはゴミという当時の価値観と、農家が頑張って育てた野菜はどうであれ野菜である、という私の考え方の間に横たわる大きなクレバスのようなギャップをどう埋めていくのかが私の大きなテーマでした。

小売から出る廃棄予定商品や生産地で出る規格外野菜をゴミとして定義する人たちは、そうした食材を用いたパリのレストランに通わざるを得ない人々に対して君たちが食べているのはゴミなのだよ、と感じているとしたら本当に本当に心が痛む。

1番避けなければならないのは、そうした制度からもこぼれ落ち、誰も管理していない本当のゴミを食べなくてはならない状況に追い込まれることであって、もはやどんな食事を誰か提供するかということよりも、そのレストランを利用したり何かをもらいに行った際でのコミュニケーションの次元の問題点が大きい、というかほぼそのポイントが全てです。

私がフードバンクにボランティアに行ったとき、団体としてやはり1番考えられていたのは、配給される食品の受け渡し方法であったり、上野公園での炊き出しでのコミュニケーションだった。

淡々とこうした活動を行い、運営側としてお金ではない何かを得られる事は大きな意味があると思う。

ましてや毎日大量の食材と向き合い、沢山の料理をお金持ちのお客さんに作って糧を得ている料理人が食品ロスと貧困について考える事は必須。

生産現場と消費のアンバランスな部分に触れ、料理人とはどうあるべきかという仕事の本質を考えるときこそ、食材と食べ手を繋ぐ事の意味が分かるのではないだろうか。

どうにもならなかった食材も料理人が触れば美味しい食事になり、誰かのお腹を満たすなんて、なんて素敵なことなんだろう、と。