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2019年09月14日

今日の賄い

 

これです。

 

何気にハマっております。

それにしても、こんな夢のような本があるのですね。

なにもかも丸出しのモロ出しじゃないですか。こんなに見せちゃって良いんですか?

宮沢りえがサンタフェでアンダーヘアー出した時に感じたような、

な、なんで脱いじゃうのよ、

という思春期特有の自分勝手で奇形した嫉妬心のまま不惑を迎えた私。

 

言い換えるなら林道を何時間もかけて峠越えなきゃいけない目的地にいつのまにかバイパス出来てて30分で行けちゃうって感じです。

ウチの若い子たちもやっと自分で料理を自分なりに調べて経験して改善して会得する事の楽しさを感じているようですが、あまりにも親切すぎやしませんか。

うへ、こんなところによく道を作ったな、という先人への尊敬と試行錯誤を金で買ってショートカットしているような後ろめたさを感じます。

かく言う私も若い頃は料理書を読み漁ってました。

それでも回り道する事でしか見えない景色があるはずだ!

とオッサンならではの原理主義的価値観を押し付けても若者には響きません。

近道を覚えてしまうと、昔の人はこんな道を往復していたんだ、すげぇな、という知恵と工夫の源流を切り離してしまいます。

こうして文明や文化とはこうして発展するのでしょうか。

 

近道や時短が正義だとは思いませんが、料理に正義があるとするなら、それは絶対的に旨い事です。

旨いかどうかの評価や価値基準は所詮、他人がどう感じるかという主観の範疇を超えず、それら主観の集約、ある種の多数決によって旨い不味いの判決が言い渡されます。

何が旨い料理なのかという自分なりの定義や基準を見つけるのは溢れる情報社会の現代では逆に難しいような気がします。

昔は師匠の言うことが原典であり、原典に近づく努力を続ける事で本質を掴めると。それだけ情報が少なかったのかも知れません。

他の店の料理人がどういうアプローチで料理に到達していたのかを知る術は今ほど無かった。

溢れる情報社会だからこそ悲喜交々経験して自分の確固たる思想を編み上げていく時間というのが、現代の修行期間なのでしょう。

若い頃はコックの卵達を弟子として料理のイロハを教え込んで自分色に染め上げた料理人を輩出したいという光源氏みたいな願望を持っていたけれど、そんなものは単なるエゴでしかなく、料理の本質は本人が見つけ出し、定義するものである事にやっと気がつきました。

逆に言えば、ネットなり本なり先輩なりに教えてもらおうという料理人はどう考えても伸びない。情報に溺れて考えることをやめてしまったとしても料理自体は作れるけれど、そこに個性や思想がなければ底の浅いものになってしまう。

結局は本人が料理という自己表現にどう向かいあい、考えるか、に尽きるのではないでしょうか。