2020年01月18日

新しいパターン

とある地方の小売企業さんが新規事業として飲食事業やりたい、と。

 

元々が小売なので、飲食とは同じ食べ物を扱っていても飲食業は全くの異次元の話。

しかも、うちの湘南みたいなノリのお店をやりたいとなると、料理も菓子も惣菜も料理教室も数字もやれるオールラウンダー能力が必須。

これがなかなか難しいのです。

ウチは飲食、小売、食肉加工、カフェ、食肉処理、総菜、はたまた畑、狩猟という食べ物産業の総合デパートみたいな会社なので一通りの事はわかってるつもりです。

小売の感覚で飲食業やると痛い目を見る。逆もまた然り。

 

そこでキーマンとなる若いコックさんの卵を東京に呼んで私が育て上げ、現地にお返ししてその土地の食材で料理をベースに色々やるってのが回り道のようで一番近道だろうと。

 

これこそ、料理版光源氏計画ではないか。

 

料理人は人口の多い都市にどうしても集まってしまい、地方に食材加工の知識は薄くなりがちです。

そのミスマッチは日の目を見ない食材を掘り起こせないまま闇に消えるミスマッチでもあります。

 

すでにウチから巣立っていった若者が都市で地方で活躍していますが、もっともっとオジサンを活用してほしいものです。

 

キラキラした目をした若者を見るたびに自分が歳をとってしまった事を実感しつつ、若いモンにはまだまだ負けんぞと強がって見せるのです。

 

2020年01月17日

本編公開

https://r-tsushin.com/sdgs/conference_01_patagonia_ogino.html

 

先日のダイジェストからの本編ですが、料理通信買って下さいね。

私たちの話した事はここにも書きましたが、他の人の内容やカンファレンスの全体像は誌面出ますので、そちらを買って読んでもらえればと。

 

まあ、とにかく私は偉そうな事を言っております。

でも、本心です。

料理人に圧倒的に体験が足りてないのは明らかな事ですし、それが様々な問題の根源でもあります。

環境保護や持続可能性というデカい話の前に私たちは自分に矢印向かなければいけないのだとおもいます。

食べ物が口に入るまでの過程での環境負荷は少なくなく、人間が生きるということは飯を食うということです。

現代人が飯を食うことで地球がドンドンヤバイ状況なるならば、それは考え直さないといけない。

今夜の食事が地球を良くも悪くも変えていきます。

オーガニックとは自分の利益ではなく、他者への利益であり、配慮です。

答えを見つける為には様々な体験をして自分ごとにしなければ他者の気持ちや負荷に対するイマジネーションが沸かない社会に生きています。

だからウチに食事に来なくてもいいんです。

誰かのために、自分のために料理をしてみてください。

食べ物とはモノではなく、多くの出来事で出来ていることが料理を通して理解でき、キッチンから世界が見えてくると思います。

 

携帯が死にました

まだ復旧作業中でして、ブログやっと書けるようになりました。

LINEとかまだまだ死んでて仕事に支障出ており、心の底からスマホにウンザリ。

 

スマホにウンザリ、ではなくこんな四角い電子機器が社会人としての役割や生活に多大な影響を与えると言うことにウンザリ。

文明が進歩して新しい何かが生まれるたびに人間は生き物としての能力や何かを失っていく。

不便さというものが逆に経済的な価値を生み、様々な不便を塗りつぶし、過剰な便利さが行き着く最終地点は、画一的に管理されたジョージ・オーウェル的全体主義なのでしょう。

 

 

 

 

2020年01月13日

バベット継続中です。

牛のバラの先っぽ、カイノミです。

先っぽとか真ん中というのは何事も良いものです。

バラの先っぽであるこの肉にも当たり前ですが、真ん中と先っぽがあります。

真ん中は分厚くて先っぽは薄い。

バラの先っぽであるカイノミの更に先っぽはうちのウィちゃんがありがたく頂くとして、基本的にお客さんには両先っぽでは無い分厚い所を用意してます。

 

多分、焼肉屋さんでも出てこない部位でしょうし、フランス料理屋に行ってもほぼ出てこないでしょう。フランスのビストロならばポピュラーですが、何故日本ではマイナーなのかはよくわかりません。

 

焼くのは難しいです。

繊維が粗いので焼きすぎると国見さんの奥さんみたいにブシャーっとドリップ大噴射、焼きが甘いと国見さんの旦那みたいに噛みきれない食えない男肉になります。

うむ、そうか、焼くのが難しいから日本では出てこないのか。

 

 

2020年01月12日

ダイジェスト

https://s.r-tsushin.com/2QDoEIc

 

11月の料理通信カンファレンスのダイジェスト。

ダイジェストなので本当にダイジェストです。

ダイジェストって言いたいだけ。

詳しくは誌面にて。

まあ、私が何を話したかはここでも詳しく書いたので今更説明する事も必要ないですが、私と近藤さん以外の皆さんはこんな感じでした、というニュアンスで読んでいただければ。

 

パタゴニアの近藤さんとは何度かこうしたトークイベントやってるんですけど、同じく感じる所として、会場の熱気が最高潮に達し、スピーカーも言いたいことが言えていい感じに終えられて片付けしてふと会場からの帰路、自分達のやっている事は果たしてどれほどのインパクトが残せたのだろうか、と都会の喧騒に自己陶酔感に似た達成感が掻き消されたあとに襲ってくる無力感です。

 

経済活動優先で考えたとき、大量生産大量消費の資本主義を否定する私たちはカウンター的であり、ある意味で反社会的であるとも言えます。

ありとあらゆるものの価値が貨幣に変換される現在において、自然や環境を貨幣に換算すると何百兆ドルにも匹敵すると言われています。

なぜ金が稼ぎたいのか

いい車に乗りたいからだ

なぜいい車に乗りたいのか

いい女にモテたいからだ

なぜいい女にモテたいのか

と幸福を金に求め、何故を重ねていくと、次第にその出どころはわからなくなり、最後には、人はなぜ生きるのか、という人類史上、誰も解き明かしたことのない壁にぶち当たります。

 

それが自己陶酔であれなんであれ、こうした活動をする事で誰かのためになる気がしているだけで本質的には自分のためにやっているという事にすがるほかないのです。

 

結局、仏教にあるように、人間社会における幸福とは感謝の量に比例するという事が真理なのかもしれません。

独り言

パリのマドレーヌ寺院の地下にできた困窮者に向けた無料レストラン。

フランス料理のコックがキチンと料理を作っています。

そして食材はスーパーから寄付されます。

食品廃棄法が成立したフランスで一定規模の小売店は食品ロスすることが違法となり、慈善団体への寄付が義務付けられました。

日本ではそれっぽい名前の法律ができましたが、中身は空っぽのスッカラカン。

罰則はなく、努力目標というていたらく。

 

加えて、こうした流れに対して出てくる腐った反対意見として多いのは経済合理性と貧困問題が直接結びつくことの是非。すなわち余ったものを廃棄するコストを下げるために寄付するという事が許されるのか、という事。

この点については私も生産者の1人として感じるに、材料である素材を作る側の視点が欠落しており、生産者はどういう形であれ自分が作ったものが誰かの血肉になることは喜ぶべきことであって小売や外食の勝手な論理やルールの上で論じられる事柄でない。

潔癖性の日本人には…という顧客のせいにして食べられるにも関わらず捨ててしまう小売業界のお客を馬鹿にした商習慣はもはや自主規制なんて生温いやり方では変わらないので法律で縛るしかない。

 

 

もう一つはゴミを食べさせるのか、という人間の尊厳を否定しているという意見。

ゴミとは一体なんなのか。ゴミかゴミではないのかを判断するのは一体誰なのか。

10年前、まだ食品ロスなどという言葉が無かった頃、規格外野菜で惣菜を作ろうとしたとき、私は後ろ指を指され、荻野はゴミを売って商売していると言われました。

規格を外れた大きすぎる豚や曲がったニンジンはゴミという当時の価値観と、農家が頑張って育てた野菜はどうであれ野菜である、という私の考え方の間に横たわる大きなクレバスのようなギャップをどう埋めていくのかが私の大きなテーマでした。

小売から出る廃棄予定商品や生産地で出る規格外野菜をゴミとして定義する人たちは、そうした食材を用いたパリのレストランに通わざるを得ない人々に対して君たちが食べているのはゴミなのだよ、と感じているとしたら本当に本当に心が痛む。

1番避けなければならないのは、そうした制度からもこぼれ落ち、誰も管理していない本当のゴミを食べなくてはならない状況に追い込まれることであって、もはやどんな食事を誰か提供するかということよりも、そのレストランを利用したり何かをもらいに行った際でのコミュニケーションの次元の問題点が大きい、というかほぼそのポイントが全てです。

私がフードバンクにボランティアに行ったとき、団体としてやはり1番考えられていたのは、配給される食品の受け渡し方法であったり、上野公園での炊き出しでのコミュニケーションだった。

淡々とこうした活動を行い、運営側としてお金ではない何かを得られる事は大きな意味があると思う。

ましてや毎日大量の食材と向き合い、沢山の料理をお金持ちのお客さんに作って糧を得ている料理人が食品ロスと貧困について考える事は必須。

生産現場と消費のアンバランスな部分に触れ、料理人とはどうあるべきかという仕事の本質を考えるときこそ、食材と食べ手を繋ぐ事の意味が分かるのではないだろうか。

どうにもならなかった食材も料理人が触れば美味しい食事になり、誰かのお腹を満たすなんて、なんて素敵なことなんだろう、と。

2020年01月11日

蟹とみかん

蟹とパンプルムースって組み合わせは古くからありますけど、別にミカンでもいいじゃない。

 

だってウチにはミカンの木がありますから。

 

ということで、カニと大根のレムラードにミカンのゆるいジュレをかけた前菜。

塩味がイマイチなってこなかったのでイクラも載せることにしました。

イクラはあくまでも塩扱いでメインではない。

メインはカニとミカンです。

 

 

真打登場

リドボーのムニエルいきます。

 

普段は軽い煮込み、フリカッセが多くてムニエルほとんどやりませんでした。

 

やはりムニエルの旨さは外せない。

下茹でして臭みを抜き、表面の薄膜剥がしてからプレスして血を抜き、粉振ってたっぷりのバターで焼くのです。

とはいえ、この旨さを理解してくれる人ってあんまりいないんですが。

 

さて、ヒドリカモです。

ヒドリカモは綺麗な羽をしていて、

私は狩猟鳥のヒドリカモですよ、ここにいますよ。ヘイ、カモン!

と、アピールしているので非常に狙いやすいんですね。

今では鴨猟は殆どが網になってますが、鉄砲撃ちには狙いやすい鴨です。

 

鴨類はいろんなのがいますけど、大きく分けて陸カモと海カモがあります。陸カモはマガモとかカルガモとか、まぁ一般的に良く食べられる旨いカモで、田んぼで落穂拾いしてるヤツです。

対して海カモってのは青カモとかで魚を食べるので生臭みが強くてあまり旨くない。

 

今日のものはそんなに大きくないので、一人前一羽いきます。

これも理解してくれる人がそんなに居ない食材なので、とうしたもんか。

鴨って一般的なのは全部アヒルとかガチョウと掛け合わせてるハイブリットなんですよ。

だから、純血統の鴨ってこういうやつなんですけどね…

 

 

 

 

キウイって

今が旬なのをご存知でした?

 

そう、1月なんです。

南半球から送られてくるキウイが一般的なので暖かいイメージですが、本来の収穫期はちょうど今なのです。

 

うちの畑でもキウイが取れてまして、形バラバラなヤツをソースにしまして、ブランマンジェのソースにします。

 

パリのコントワールで食べた思い出のデザート。

2020年01月10日

危険行為

どこやらの山、確か日光白根山あたりでは入山規制として、厳冬期の携帯型GPSを義務化したみたいですね。

それを持っていれば遭難したときにヘリが見つけやすいとの事。

それは素晴らしいではないか、という声が多数。

トレイルランニングレースでも必携装備とされているとか。

え?本気ですか?

何しに山に行くんですか?

しかも厳冬期ですよ。

遭難したときに見つけやすい事は確かに日本人の大好きな自己責任論からすれば歓迎すべき事なのでしょう。

もしもの時に見つけやすい、というのは一種の安心感です。

でも、その安心感て必要ですかね。

登山とは都市生活者の道楽です。自然に近い暮らしをする人に登山は必要ありません。

自然に近い暮らしというのは、動物的な暮らしです。そういう意味では出産してガチで子育てしているママさんに登山なんて必要ありません。子供って野生動物みたいな大自然そのものなので、わざわざ自分の野生感を確認するために登山や狩猟なんかしなくてもすぐ横に大自然があるからです。

私は子供が産めないから山にでも登って鹿か何か撃ち殺さないと野生を忘れたルサンチマン野郎になってしまうから仕方なく山に通うわけです。

登山がスポーツではないという点は審判がいない、という事に尽きます。

もしもの時に助けれもらう事を安心感として山に入る事は登山を汚します。登山を自由というコンテキストで語る場合、そんなGPSでトラッキングできることの価値が私にはわかりません。

登山における遭難とは、登山における自由と同じ地平にあり、予め設定されたゴールと帰るっぽい時刻があるから、それを大幅に遅れるから遭難になるだけであって、多少迷っても自力で帰ってこられれば遭難にはなりません。

どんなルートで登っても良いし、登頂しなくても良いし、登山道使わず岩壁を登ってもいい。

 

極論言えば、道に迷って帰るのを諦めたからこそ死ぬのであって、それは自由の範疇です。

どこで寝ても良いしウンコしても良いという圧倒的な自由を求めて登山するのに、ちょいヤバそうなら助けてもらえる安心感を携えて山に入る事に価値を感じるのは管理されるのが好きな現代人らしい選択なのでしょう。

私が考える最も美しい登山とは、山に入ったまま行方不明で1〜2年ほどしてみんなが忘れた頃に何食わぬ顔で極寒の山から降りて来るという完全な自活生活を山で半野生化して行っていた原初のアイヌ民族です。

そんな事ができる日本人は私の知る限り4人しか居ませんが、私は猛烈に憧れます。

 

前置きが長くなりましたが、たまたまウチの店がある本屋に行ったら、これまたとんでもない本に出会ってしまいました。

本屋って本当に危険な所で、読書とは危険極まりない行為なのです。

息子の鼻くそ掘りながら歩いていて、たまたま出会った本で人生変わってしまう可能性があるわけですから、GPS持って登山道をなぞるだけの肉体労働的ハイキングよりはよっぽど危険度が高い場所です。

 

 

 

 

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