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2021年02月28日

ビビってしまったのです。

‌今日で神奈川県の狩猟期間は終了。

今日は休みだったので、あらかじめ家族には今期最終日はとってきた鹿肉でバーベキューやろうぜ、と話していたものの、当日を迎える前に行く気が完全に失せた。

 

猛烈に怖くなり、とにかく気が重い。

要するにビビってしまったのです。

去年、山梨で親子の鹿に遭遇し、どちらを狙うか一瞬迷い、そして小鹿を撃った。

肉が多く取れそうな母親ではなく、味の良さそうな子供を選んだのです。

 

当たった手応えがあったので急いで現場に急行し、飛んだと思われる方向に進もうとしたところ、その場に一歳半〜二歳らしきオスの小鹿が倒れていた。

射撃の未熟な私としては完全にまぐれで首に命中、既に虫の息だった。

ヘッドロックした首にナイフを当てて放血し、すぐに腹を出して冷却。素手で触った内臓は熱いくらいに温かく、猛烈な寒さの中で濛々と湯気を出していた。

遠くで母鹿が何度も何度も鳴いている。

いなくなった子供を呼んでいるのか、子を奪った私を責めているのか。

母を奪われる子の気持ちにたっても、子を奪われた親の立場にたってもズキンと心が痛い。

私が山に行かなければあの小鹿は死ななくて済んだ。わざわざ撃ちに行かなくてもスーパーに切り身が売っているにも関わらず。

しかし自分の手を汚すのと、効率化を隠れ蓑に嫌なことをタッチせずに旨い不味いだと勝手な事を言うのとでは、どちらが野蛮なのだろうと時々思うのです。

私はまだまだ都市型野蛮人要素が抜けてないんですね。

サステナブルとは、サラサラツルツルを否定し、ベトベトでヌルヌルを肯定するという事です。

料理はすぐに結果が出るという点において、メリットとデメリットが共存しますが、デメリットの方はあまり意識されません。

生きていた動物が素材となるプロセスが完全に抜け落ちてしまうため、身体性が極端に欠落しているのです。私を含め現代の料理人と呼ばれる人種はほぼ全員そうです。素材に対する身体性が欠如していても本当にその人の料理と言えるのか?

料理自体を作って食べるのは一瞬ですが、素材としてキッチンに運ばれてくる前には気の遠くなるような時間軸での営みがあります。

私の畑で1週間前に種まきした小松菜がやっと芽を出しました。

今日はカブとニンジン、じゃがいもを植えました。食べられるのはいつになるやら。

 

来週からは子供と海で夕飯を調達するというミッションがスタートします。

幸い、自宅から歩いて海まで行けるので、魚が食べたい日は自分で釣ってくる、もし釣れなければ仕方なく買ってくる、というルールにしようかと。