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2020年02月05日

絶滅危惧種

フランスのバルバリー鴨を丸ごと買いました。

1羽3キロ越えの一級品です。

腕が鳴りますねぇ。

 

ここ最近、肉はなんでもかんでもパーツ売りが基本。

最近のちびっこは海の中でアジの切り身がそのままの形で泳いでいると思っている、という笑い話みたいな笑えない話がありますけど、今のコックさんも丸の鴨や鶏は見たこともバラしたこともありませんし、パーツでしか料理したことありません。

そんな必要ないですから、やる必要がないのです。

必要が無くなってパーツで買えればバラす手間なくて便利ですけど、バラす技術と経験、何よりアンティエでなければ出来ない料理に触れる体験がなくなります。

鴨、鶏、ウサギ、子豚などアンティエ前提の料理は数多くありますが、ほとんどその姿を見なくなり、作れる人もいなくなり、

あー、そんな料理、昔の料理人の本で見たことありますけどねー、どうなんすかねー、面倒くさ過ぎますよねー、

という日も近い。

いや、すでにそうなってるからパーツでしか買えない。

 

 

食べた事なければ作ることもできず、作ることが出来なくなればこの世から姿を消します。

労働時間の制約が厳しくなって便利や効率を求めれば、手間をかけた旨さは淘汰され、誰でも作れるロゼ一辺倒の焼肉料理か、ウケ狙いのエンタメ小皿料理ばかりになって、深い味わいの職人技は消えていくのでしょう。

ガストロノミーとは手間と時間、簡単には真似できない職人技を注ぎ込んだ余白の文化。

余白よりも効率、効率化とは均質化、均質化とは再現可能性を上げて誰が作ってもブレがなくなる事です。

職人技は属人性が高く、その人にしか作れないクロワッサンがあり、テリーヌが存在しますが、その人が作らなくなればこの世からなくなります。

では、それを守っていくべきなのかと言えば、それは均質化に進むことを意味しますから無意味です。

 

そう、モノづくりや職人技とはこうして消えていく運命なのです。

 

効率を突き詰め、不便を便利に塗りつぶすことが近代化なので有れば、私たちの仕事はどとらにしても消えていくのでしょう。

その儚さこそが価値とも言えます。

わざわざ手間のかかる事をあえてやる事が職人のこだわりであり表現。

手間をかけなければ到達出来ない絶対領域があり、それらの表現にはある種の狂気が伴います。捌き方や火入れが少しでも狂えば最終的な仕上がりに大きな差が出来るため、些細なミスで私も殴られ蹴られ顔を腫らして覚えたものです。

そんな事を今やったら一発で社会から抹殺されますから、誰かに教えることなんてしません。

やれるもんならやってみろ、と。

 

 

 

 

鴨は真ん中にフォアグラをぶっ込んで巻いてバロティーヌとします。ニワトリでやるのが一般的ですが、フォアグラは鴨から作られる為、鴨で巻く方がテロワール的にも自然です。

比較的高い温度帯で鴨を綺麗に火入れすると共に、中心部のフォアグラには低温でねっとりとした食感を残さなくてはいけません。

鴨は生ではダメですが、カモに火が入る温度帯はフォアグラには高過ぎる。

鴨の余熱で全体的に火を入れながらもフォアグラの脂を出し過ぎれば意味がない。

要するに周囲と中心で火入れが変わります。これはデジタル化出来ないナイーブな作業です。

仕上げに鴨の皮から余分な脂を出し切るために表面を焼きますが、これも計算に入れなければならない。やらなければブヨブヨとした間の抜けた仕上がりになります。

 

これだけ書いておいて、失敗したら大笑いですね。