2019年12月04日
今のお前には鹿は獲れねぇ
マタギのオヤジさんに言われた一言がズッシリと心にのしかかっています。
お前は引き金を引くタイミングが遅いのだと。
それは迷いがあるからなのだそうです。
何に迷っているのかは自分で良く分かっています。
私に生き物を殺す権利があるかどうかです。
獣を殺したいと願う反面、家に帰れば家族としての犬が居る。
犬が死にそうな時は涙を流すくせに、マタギが獲った野ウサギや鹿は嬉々として料理しているという矛盾点に折り合いがつけられてないウチは鹿は獲れないそうです。
猟師の皆さんが動物に対して血も涙もない極悪非道なプレデターかといえば、家には猟犬の他に猫や馬がいたりします。
猟師は皆、動物好きです。
それらを殺して食べるということは考えない。
しかし、鉄砲を持って山に入れば一撃で致命傷を与えて肉を持ち帰ってきます。
ペットを食べ物として考えないことの反面、獣を殺して食べることへの善悪を真正面から考え、自分なりに肯定しなければ肉を獲ることも食べることも私には資格が無いとバッサリ斬られました。
自分の手を汚す事を忌避している時点で私はズルいのです。
生き物に対する感謝や礼儀として残さず食べるということで殺しが肯定されるのか。
論理が感情を超えることはなく、古来人間は相手の立場に立って物事を考える事で他の動物とは異なる発展を遂げたのではないかと思うようになりました。
獣は論理や本能を優先し、生きるために食べるを貫いてきました。
殺しに感情が邪魔をするのが人間なのかも知れません。
捕食動物に可哀想とか申し訳ないという感情が入り込む隙間はなく、無駄なく食べるという私なりの礼儀や建前など、鹿の内臓だけを食い散らかした熊の食べ方を見ればなんの意味もない事がよく分かります。
その惨状を見る度に、解体や料理は美しい行為なのだと思います。
こんなことを考えている時点で私は自然から遠く切り離されてしまったことを確認するのです。