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2019年03月10日

縁起でもないKY本

出産の際、男の無力感に打ちのめされました。

何もやる事がない。

水!

と言われてペットボトルの蓋を開けて口元に持っていくか、

さすって!

と、言われて腰あたりを指圧するくらいが男に出来る精一杯です。

そもそも、男は出産に全く必要ない。

男という生物学的存在意義ってなんなのでしょうか。

カミさんが、あー、陣痛で痛いなぁー、と言ってる横でやることのない私はゴソゴソとカバンを探り、読みかけの本を出しました。

これから命が誕生しようとしているタイミングに、よりによってこんな本が出てきて、カミさん曰く

アンタ、どこまでもシュールな男だね…

との事。

 

産婦人科で出産待ちに読む本ではないです。

 

死生観の本ですが、ここに西洋思想の限界を見た気がします。

こうした死後の世界観や死の意味合いを問う事のある意味で無意味さというのはいつの時代も人々の関心事項であり、それが宗教的な連なりをもって語られる事が多いのですが、この本はそうした宗教的な死に対する考え方を排除して、あくまでも学術的に死の意味を問うています。

 

しかし、死んだ人に聞かなければ死後の世界の事はあくまで想像の域をこえず、さまざまな分野の知識を駆使し、理解度を深めるために図表を多用したとしても、ただのたとえ話にしかならず、死の意味を問うことは生きる意味を問うという逆説的な着地にしか到達出来ません。

 

アリストテレスからの形而上学はこの本では縮約されておりましたが、逆にそこからハイデガー、マルクス思想に至る哲学や難解な考察を書かれても頭の悪いわたしには理解不能なので、逆に良かった。

この手の本で避けて通れない項目として自らの手で生死をコントロールする自殺についての賛否、倫理的アプローチ、宗教的アプローチがあります。

倫理観についての西洋的な思想には全く共感出来ませんでしたね。

カミュは シ ーシュポスの神話 の中で 、 「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない 。自殺ということだ 。人生が生きるに値するか否かを判断する 、これが哲学の根本問題に答えることなのである 」

と、言ってます。

自殺についての考察こそが哲学の真理なのかもしれません。

人は

なんで生きてるんですか?

と、言われて即答出来る人は少ないのではないか。

生きる意味を問うことは無意味です。

そもそも、西洋思想にはラビアンローズ的な人生は薔薇色で人生とは良いものでちょっと良くないことがあってもプラスとマイナスをならすと人間誰しもちょいプラスだよね、だから頑張ろうね的な思想があるように思います。

日本的に言うと、人生山あり谷ありですが、東洋思想、仏教的な宗教観からすると、人生は苦である、基本的に苦しいものであると言う思想があり、

四諦

してい

という4つの真理を説きます。

この世は苦しみであり、病があり、死があり、痛みがある。

私たちは欲しいものがあり、運が良ければ手に入るが、いつか失う。

人生とは全体としていいものではない。

こうしたいいものからの愛着から自らを解放し、失った痛みを最小限にするために無心の境地をめざすのです。

自己が存在するという幻想から解放することで何一つ失うものがないという状態、自己がなければ消滅するものもなくなり、死が恐ろしくなくなる、という悟りに達するのです。

だからこそ仏教において、幸福とは感謝の量に比例する、と考えられているのではないのか。

ありがとう、とは有り難いもの、有ることが難しいということです。

 

ある禅師は

時は整った。ではみなさんさようなら、ありがとう。

と言ってそのまま即身仏になっそうです。

これこそが仏教的な死の意味である様な気がします。

 

と、この本を読みながら出産に立ち会うという変態的な状況で、失う物のない悟りの境地どころではなく、動物的執着すらしてしまう子という存在を前に私は、この世の春を謳歌するダメな人間なのです。