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2019年03月02日

ちょっと軽くなるかもしれませんよ

 

平野啓一郎さんを立て続けに読んでます。

 

コミュニティの最小単位は家族ですが、社会的観点からの最小単位は個人でしょう。

しかし、個人といっても色々な顔を使い分けています。

例えば私は店ではお客さんに対してはニコニコしている感じのいい上品なイケメンというイメージで間違いないと思いますが、スタッフ側からするとただの40過ぎの恐怖感溢れるイケメンでしょうし、明らかにお客さんとスタッフの前では同じイケメンでも人格が違います。

家族の前では寡黙で根暗なイケメンとして、また職場とも違いますし、犬の前ではまた息子やカミさんとも異なり、偉そうなイケメンボスになります。

サザエさんと桃子さんではそれぞれに私のイケメン人格がこれまた違いますし、Tシェフの前では私はチワワのような萎縮したイケメンとなります。

これは大人ならではの人格の使い分け、意識しなくても社会的な立場によって色々な顔をを使い分けているのですね。

 

 

著者はこれを個人をさらに細かく分けた分人と定義します。

 

 

分人主義的に社会とあなたの関わりを見て行くと非常にわかりやすく物事が理解できます。

全部足して100があなたという個人の場合、100のうちの特定の分人がどれくらいの割合を占めるかが、相手との関わりの重要な目安となります。

職場での分人よりも家族との分人の方が安らげるのであれば、家族分人の方があなたらしく、職場の分人はあなたらしくないと言えますから、家族との分人を大切にして行った方がよく、職場的分人は割り切って過ごすしかない、もしくはなにかを変えることで心地よい分人になることが出来ます。

 

この分人主義は平野さんの小説に貫かれている考え方であるように思います。

 

自分という個人の中に様々な顔を持つ分人が存在し、そのことを肯定的に捉えることで恋愛や職場や家族との関わりを再定義しているのです。

個人の中の分人の割合があなたという人間なのであって、八方美人とか多重人格とかネガティブに語られることの多い複雑な人間関係を抱える現代人の処方箋になるでしょう。

ともするとなんでもかんでも病名を付けて薬漬けにされる可能性が高い心理的な病気や、現代人の一番の毒であるストレスも、一旦立ち止まって平野さんの分人主義を自分に当てはめて考えると、ストンと腹に落ちる事も多いと思います。

 

私のような仕事はまさにお客さんごとに分人が存在するといってもいいような人の顔色を伺う仕事であり、それが楽しくもあり辛くもある仕事です。

料理人でなく、それがどんな仕事でも、そもそも仕事とは金を稼ぐ前にだれかの為に汗をかくということであり、金はその結果に過ぎません。

そして現代のストレスの根源は全て人間関係由来です。誰かの顔色を伺うということがすべてのストレスなのです。

 

でも、それでいいんですよね。

人間なんですから、お互い調子いい時も悪いときもあるでしょう。

分人という客観的観念を持つことは人に対しても自分に対しても寛容になれると思います。

 

この本は読んでよかった。

 

北澤、ありがとう

 

リンゴ農家やりながらレストランとかカフェとかやってる私の弟子から、毎年恒例のりんごジュースが来ました。

 

おい、北澤、今年のは結構甘いな。

何かで割らないとシンドイぞ。

 

 

 

この北澤、かれこれ20年の付き合いで、私との出会いは私が21歳、北澤が20歳でした。

本当に不器用な子で、当時いっしょに働いていた職場で大変なヘタこいてクビになったくらい色んなヘタレ武勇伝を持つツワモノです。

 

その後、私が目黒で店を一軒任されるときにあろうかとか、北澤に声をかけて一緒に働いてもらうことにしました。

 

案の定、私のキッチンで来る日も来る日もありえないヘタこきまくって私に八つ裂きにされる日々。

後にも先にもキッチンでドロップキックやヘッドバッド喰らわせたのは北澤以外に居ません。

 

それでも涙とヨダレを流し、私の靴底の跡だらけのコックコートで食らいついてくる不気味なガッツがあり、途中からは料理の方向性について首締めあって喧嘩するほどになっていき

休み前に新婚だった私のボロ家に呼んで一晩中、料理について話し合った覚えがあります。

それだけに絆が強いというか、だいたい何考えてるか言葉無くても理解し合えるほどに濃密な2年間を経て、実家の長野県に返って家業を継ぎました。

 

あの頃は私も若くて馬鹿だったし、北澤も馬鹿で若かった。

 

今や、私など飛び越えて世界中で活躍する弟子達の近況を聞くたび、最近は素直に嬉しくなります。