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2018年10月27日

私、実は湘南在住なんですけど

って、告白するような話でも無いんですが。

サーフィンやりたいだけの理由で移住して早何年。

 

 

 

湘南ベルマーレがルヴァンカップに優勝しましたよ!

 

いいね!

 

って事で、何の脈略も無いですけど、めでたいので明日のディナータイムで

 

祝湘南ベルマーレ!なので二皿目に白子選べるようにしますよディナー!

 

とします。

 

別に湘南ベルマーレおめでとう、って思ってなくても良いです。

 

 

はい、私、こう見えても、ずっとサッカー部でした。

ポジションは不動のセンターバック。

マルディーニのような鉄壁のディフェンスは健在。

 

宮本が居なければ私が日本代表にいた筈です。

 

 

イノシシのコンフィ

作ってみました。

先日、7時間半かけて運んできた例のイノシシです。

そのロースとヒレは20名さまで即完売。

 

そう、焼いて旨い肉は70キロのイノシシからたった20人前しか取れません。

 

後は何かしらの加工しなくてはいけません。

モモと肩類は塩漬けして八ヶ岳に送り、義父がキャッキャしながらスモーク&ドライしてくれてますので、再来週あたりに激ウマなハムとしてデビュー予定です。

 

阿寒の鹿肉もありまして、こちらは赤ワインでシチューにしましたので、イノシシのスネや首肉、バラ肉はコンフィといって、ラードの中でコトコト柔らかくなるまで煮込んで、最後は焼いてお出しします。

 

事前に塩とスパイス、ハーブで漬け込んでオスのイノシシ独特のアンモニア臭を和らげてあります。

 

肉の味がする最高の仕上がりとなってます。

ロースやヒレの焼いたのも旨いですが、ひと手間かけたコンフィはかなり良い線いってます。

普段旨いものしか食べてないRXのボスにランチで出したら

うむ、なかなか良いではないか、よろしい。

との高評価。

 

イノシシも喜んでくれていると思います。

アイヌ料理に欠かせない

木の実。

 

キハダです。

アイヌ語でシケレペと言います。

ミカン科の木なので、ほんのり柑橘の香りがします。

 

狩猟漁労採集を行い、その知恵と工夫で極寒の北海道で生き抜いたアイヌ民族にとってなくてはならない木の実です。

 

キハダの木は落葉の高木で、実は未熟だと青く、食べられません。

樹上でこのように完熟すると鳥がついばみ始めます。

その衝撃でいくつかの実が下に落ちます。

高木なので登ることが出来ないため、実が落ちてくるまで待たなくてはなりません。

 

秋になり、山からの分け前として頂くのだそうです。

 

この実は独特の清涼感ある香りで、山椒に似たアクセントになります。

主にラタスケプというジャガイモやカボチャなどの和え物の香りづけに使われ、煎じてお茶にすることもあります。

薬としてのシケレペの効用は非常に高く、胃腸の調子が悪い時に威力を発揮し、打ち身や捻挫、やけどにも使われる漢方薬です。

 

また、キハダの木は別名黄檗(おうばく)と呼ばれ、皮は鮮やかな黄色がでるので、草木染めではポピュラーな存在です。

皮には防虫効果もあり、木の皮を米びつに入れておくと米虫の発生が抑えられます。

 

来週火曜日からのアイヌ料理ウィークでは、このシケレペと秋シャケでテリーヌかなにかを作ってみようと思います。

 

秋シャケも非常に重要なタンパク源で、神の魚カムイチェプと呼ばれています。

遡上するこの時期、自分たちが冬を越せるだけの量を川から頂くのだそうです。

そして大切なのは卵の入ってない鮭を選ぶこと。

卵を産み終えた鮭は人生の目標を終え、後は死を待つばかりです。

その鮭を採り、鮭トバやルイペ(凍った刺身)を作るのだそうです。

脂のない鮭の方が旨いトバになるとの事。

 

自然に寄り添い、あくまでも神である自然から分け前を頂くという慎ましく謙虚な姿勢と暮らしぶりからは、沢山のことを教えてられている気がします。

 

料理とは、こうあるべきだと改めて感じた次第です。

 

まだ少しお席ございます。

火曜から金曜の平日限定ですが、予約フォームに通常コースに並んで阿寒摩周コースがありますので、宜しければ是非。

ここで無駄を出しては本末転倒なので、食材準備のために明日日曜日までのご予約とさせていただきます。

 

 

阿寒で感じた事を私なりにフランス料理に落とし込んでみようと思います。

 

 

 

 

私の好きな話

もうだいぶ以前に読んだ灰谷健次郎の

だれもしらないって言う本で、

生まれつき体の不自由な女の子がいて、小学校に歩いて通うのにすごく時間が掛かっていた。

普通の子は10分くらいで学校に着き校庭で遊んでいるところを、その子は毎日ノロノロギクシャク歩いて30分以上掛かって通っていた。

ある日、先生が生徒たちに家から学校までの事柄を作文に書かせた。

回収した作文を読んで先生はびっくりした。

ほとんどの子が通学の間の出来事が通り一遍の情報なのに対して、体が不自由なその子が見て感じている情報がとてつもなく多く豊かなことに。

その子が通学する姿は外から見るとノロノロギクシャク、歩くのに精一杯に見えるのだけれど、実は彼女は毎朝のその30分の道すがら、雑草に触れ挨拶をし、庭先のお花と話しをし、ミミズや蝶々や小鳥と会話をし、日々の街や自然の変化をつぶさに丁寧に見つめ感じていた。

それは一見多くの事をしてるように映る走って登校し校庭で遊んでいる子には見えてないことだった。

いったい沢山の情報に触れ感じるってどういう事だろう。

人生で大切な事は、魂が何かに触れ納得することだ。

それは、どれだけ遠くまで行けたか、どれだけ長く生きたか、どれだけ早くたどり着けたか、どれだけ多くを手に入れたか、どれだけ欲望を実現できたかという事とは違う。

人の生には限界がある。健康な人もいれば病気がちの人もいる。身体が不自由な人もいれば知的障害を持ってる人もいる。100年生きる人もいれば5年で亡くなる人もいる。

でも僕は、宇宙は全ての人に平等に、この宇宙の成り立ちや魂や命の真実に触れるチャンスや材料を与えてくれていると思っている。

どんなに短い距離もそこを押し広げれば途方もない距離と情報が現れるし、どんなに短い時間でもそこを押し広げれば永遠とも思える時間が横たわっている。

結局、何時何処にいようが僕らは常にこの宇宙の膨大な情報と共にあり、大切な事はたった今、目の前に横たわる宇宙や命や魂の情報にアクセスできてるかということだ。

遠くまで旅に出れないことを嘆くこともなければ、沢山の経験が出来ないことを悔やむ必要もない。

僕らは、常にどんな状況の時も宇宙が贈るメッセージに囲まれている。

人生の豊かさや安堵は、どれだけ多くをやれたかでなく、魂が何にアクセスし喜び納得したかにある。