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2018年08月23日

リリースしました

https://or-waste.com/?p=1960

 

今回は阿寒湖、摩周湖という圧倒的な大自然の中を自転車で走り、見て、感じ、聞き、食べる内容です。

 

 

 

 

アイヌのカルチャーにも触れます。

アイヌ文化はイヌイットと同じく極北の狩猟採集生活文化です。

その歴史は壮絶で、今を生きる日本人として知っておきたい大切なことだと思います。

 

詳しくはサイトの情報をご確認ください。

 

来月、下見に行ってきます。

 

 

乳飲み子牛

地味にやってます。

ニュージーランド産です。

生後2週間とか。

 

ヨーロッパ産で純粋に乳だけで育った子牛ってのは今現在フランスにも無いのです。

 

EUではアニマルウェルフェア(動物福祉)や倫理的な観点から少し草や穀物与えてからの屠畜となるのだそうです。

 

 

今読んでいる本が正にその辺りを鋭く切り込む内容なのですが、これは非常に難しいというか、なんとも言えないモヤっとした心持ちになります。

 

 

 

 

 

どうせ殺すんだからなんでもいいでしょ、

と、コンクリートみたいに無機質に捉えるのか、

少しでも太陽浴びてから穀物食べてから殺す方が倫理的でしょ。

 

と、人間の勝手な倫理観を押し付ける方がいいのか。

 

屠畜の仕方にも色々あるようで、例えばハラールというイスラム中心の考え方からすると、家畜が苦しまないように殺さなくてはならないそうです。

ハラールという言葉自体が倫理的、という意味なんだそうです。

電気ショックで気絶させてから絶命させるか、鋭い刃物で首を動脈から気管支まで一気に切ることで苦しまずに絶命させるか、それともバタバタしている動物や頭に銃弾を撃ち込んで一瞬で脳と神経を破壊されするのか。

 

興奮してアドレナリンが出ると肉質が落ちるので、一瞬で絶命するのが良いそうです。

 

 

 

何をしても殺すことには変わりないんです。

その時苦しかったかどうかを死んだ動物に問いかけても無意味、ただの欺瞞だと思うのです。

倫理的という言葉を盾にしてみたくないものを見てないだけ、こちらの一方的な想像と価値観の押し付けで安心したいだけなのではないのか?

 

そもそも、屠畜とか屠殺とか倫理的とかハラールとか言ったところで、私たちが直接手を汚して生き物を殺すわけでは無く、言ってみればそうした命のやり取りをアウトソーシングしているだけの話。

 

その事実に蓋をして殺し方がどうのこうの、味がどうのと議論する事になんの意味があるのでしょうか。

 

自分たちで面倒見れなくなった犬猫は毎日毎日保健所で殺害され可燃ゴミにされています。

 

 

料理に携わる人間は豚の屠殺場に行くべきで、さっきまで生きていた熱い内臓の温度を持った鹿肉を捌いて料理をするべきです。

 

 

 

 

いただきます、美味しいな、不味いな、

 

 

 

の前には必ず屠殺があります。

 

売られている肉や皿に乗っている肉が動物の死体であることも私たちは忘れてしまっています。

 

言い換えれば、動物を殺す事の痛みや罪悪感をどこか遠くに追いやり、自らはそれが見えない所で自己保身を図って、生死を分かつという生身の経験を自分の中に蓄積する事なく、そのモノの良し悪しを語っているのです。

 

 

より倫理的だと思われる価値観で殺された動物から作られた食べ物や衣服を買い、それを簡単に無駄にしていたらそれは倫理的であるとも思いません。

 

動物は自分が大人になる前に殺されて人間に食べられることを知っているのだろうか。

殺されるために産まれる動物にしあわせな死に方があるのだろうか。

 

 

死というものを、もっと可視化すべきではないでしょうか。

 

 

やばい

サーフィンや登山ばかりやっているので体重が65キロを突破。

 

こんなに増量したのは何年振り?

 

てか、初めてかも。

 

トライアスロンの時は体重増やすのが苦しかったけれど、こんなに一気に増えるとは。

 

 

涼しくなってきたので、そろそろ練習して再開しようかな。

 

 

いい加減に引っ込みつかなくなってきたので、今年はとにかく少しづつベースを作り込まないと。

 

このままではアスリートシェフの肩書きがただのお飾りになってしまう…